TaoChat@1207編集後記

今年も残すところあと2日である。大掃除もまだ終わっていないが、とりあえずメルマガの原稿は書き終えて、発信準備も終えた。明日は雨ということなので、大掃除だけは済ませたい。今年を振り返ると、初体験がいろいろありました。湯沸し器の温度センサーが故障して風呂に入れない日があったこととか、台湾旅行のためにe-SIMを使ったこと、翻訳アプリで台湾の方と会話したこととか、家内とともに救急車に乗ったこととか話が尽きません。でもすべてに共通していることは、あわてずに落ち着いて臨めば、問題は解決していくことです。ケセラセラという言葉がありますが、なるようになるさということです。この言葉はスペイン語なんですね。ラテン系は楽天的に考えるようですが、まさに、なんとかなるさで人生を終えたいと思います。

最近読んだ本は、小津夜景さんのエッセイ「いつかたこぶねになる日」で、これはとても面白かった。彼女はフランス在住の俳人なのですが、この本では、漢詩を現代詩のように訳されている。これがなぜか新鮮さをかもし出し、漢詩の堅苦しさが抜けて、詩人の感性が直に表面に現れてくるのが感動的です。平安時代の貴族、桑原広田磨の水中の影という詩が気に入りました。それを味わった彼女の文章では、「存在は非存在に支えられている。非存在は存在に支えられている。なにものも固有の本質へと還元されなどしない。....世界の底はからっぽである。」ところが好きです。この言葉は、来年のメルマガの言葉にしようかと思ったくらいです。

今回の言葉はことし最後の言葉なので、老子から選びました。自然の働きは、もとに戻っていくという言葉です。復るがキーワードです。かえるー還る-帰る、いろいろ表記できますが、とにかく原点に戻るということです。では原点とは何か? ポール・ゴーギャンの有名な絵、「我々はどこから来たのか我々は何者か我々はどこに行くのか」でいうところの、人間の起源であり、現在であり、未来であるといえると思います。自然の働きでいえば、原点は起源になります。星は生まれたところに帰っていく。宇宙空間で生まれ宇宙空間に帰っていく。では人間だけが起源から離れ、未来に向けて帰っていくのか? しかし、起源が抱えた制約に寿命というものがある。科学は寿命という制限の原因をつきとめ、永遠の生命を目指そうとする。しかし、地球に人間が溢れたら、食料や燃料が枯渇する。そのために人間の寿命を人間自身が制約するという事態が訪れるかもしれない。こうなるとデストピアの世界になってしまう。老子のことばは、人間はいくら進化しても、自然の起源が与えた制約からは逃れられないと教えているようである。