TaoChat@1339編集後記

それにしても暑いです。外に歩きに出たくても躊躇する暑さです。ミンミンゼミの声が暑さを増すように聞こえる。家のなかで熱中症にかからないようにエアコンをフル回転しています。

この一週間のニュースは、山田五郎さんの訃報が残念であった。YouTubeのオトナの教養講座を楽しみにしていたので、もうこれから痛快な講釈が聴けないのが寂しい。がんと闘っているとき、つらいとおっしゃっていたのがついこの間のようである。アウト老のみうらじゅんさんがゲストに呼ばれたときの収録を聴きながらブログを書いてる。みうらさんが製作途中の仏画を持ち込んで板光背を持つ11面観音を語っていた。次のニュースは大相撲である。豊昇龍・大の里両横綱が13日終わって7勝6敗と勝ち越しにならず情けない事態が生じている。もう一つ安青錦の快進撃である。大関から陥落して関脇になって初めての場所である。足を痛めたあと2横綱をやぶっている。確かに苦手力士がいて2敗しているが、優勝に一番近い。霧島も3敗で追っているものの、横綱との対戦が待っている。これを書いているうち、豊昇龍が負け越しから逃げるように休場してしまい、霧島は不戦勝で3敗を維持して千秋楽となった。また熱海富士も3敗で追っており、千秋楽で安青錦に勝てば、優勝決定戦にもつれ込む可能性のある。ということで、大相撲から眼が離せない。

プライベートの一週間は、大江健三郎の「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」を読み終えた。狂気というのは、肥った男とその父親の狂気だが、その狂気を肥った男の息子が受け継いでいるのかも主題になっているような気もする。狂気から逃れるには狂気の実体をつかむことと肥った男は確信する。父親の狂気と自分の狂気の違いがわかったとき、自分の狂気に立ち向かう自由を得ている。息子もまた同じ自由を得るだろうと予言しているのかもしれない。

今回のメルマガの言葉は、マルクス・アウレーリウスの「自省録」よりいただいた。宇宙から原子に至るまで、自然に支配される自分を見失うなというのが、名言の基本にある。宇宙から見た自分と原子から見た自分はつながっている。個人的には、ローマ皇帝となる人間がどうしてこのような視座を獲得できたのかに非常に興味がある。哲学者がたまたま皇帝になったのか、皇帝に至る道のりの中で哲学者になったのか。中国の哲学者の場合なら、自然を基本におく哲学者(思想家)は権力者に政治の道を箴言するが、自らは権力者にはならない。アウレーリウスの場合、他者に自分の哲学を説くのではなく、自分に対して求道の姿勢を貫いている。なかなか達成できない道を戒めの気持ちを込めて、自分に言い聞かせているようにも思える。

TaoChat@1338編集後記

今日は暑くなりそうなので、エアコンの掃除をして熱中症に備えることにした。一昨日の夜は蒸し暑く寝汗をかいた。寝る前に冷房で部屋を涼しくしておくと睡眠が深まるので、その準備もある。あさっての海の日は茅ヶ崎で浜降祭がある。毎年浜降祭の頃には梅雨明けなので、暑い夏はすぐそこまで来ている。この一週間のニュースは、やはり皇室典範改正がインパクトが大きい。天皇は国民の象徴であるが、誰が天皇になるかについて、国民の意見が問われなかったのは非常に残念である。国民の多数が女性天皇があってもよいとされるのに、男系男子にこだわった結論は理解に苦しむ。明治政府の結論を引き継ぐ理由はどこにもない。何故そうなるのか、国民に説明があってしかるべきだろう。プライベートの一週間は、大江健三郎の小説を読み続けている。氏のふるさとで出会った流浪の民が、氏が済んでいる世田谷に流れてきてひと騒動起こす話が面白い。狩猟民として生計を立てていたが、都会での生活は困難を極め、住民との間にあつれきが高まる。氏も同情をそそぐが息子に危害が及ぶと手放しではいられない。タオイストの自分としても、自然を相手に生計を営む人々に尊敬の念を抱く。生きていくには、自然だけでなく人間とも付き合わなければならない。自然を忘れた都会の人間は流浪の民に対する尊敬の念がない。話がどう流れていくのか先が楽しみとなる。

今回の言葉は、荘子よりいただいた。荘子の内篇をめくってみて、マーキングした箇所を飛ばし読みする。生死に関わる言葉へのマーキングが大宗師に見つかる。荘子は、こだわりを捨てて生きる人間を、真人と呼ぶ。まことの人間である。選んだ言葉は、真人の生き方についてである。大江氏の小説ではないが、今の世の中は、真人にとって生きにくい。真人が引き起こす騒動とそれに追い立てられる真人の生き方が小説の題材になるくらいである。大江氏は真人を描いているわけではないが、自然の厳しさのなかで生き抜いてきた流浪の民と、自然を忘れた都会の人間とのぶつかり合いから何かを暗示している。核戦争や自然災害で都会の民は滅びるが、自然の恩恵を大事にする流浪の民はしぶとく生き残っていくのは当然予測されることである。

TaoChat@1337編集後記

メルマガTaoChatを配信してから、大分日が経ってしまった。とにかく先週末は忙しかった。日曜にはフランスからやって来たピアニストのリサイタルを聞きに藤沢まで行った。迫力ある演奏で心が豊かになる一日だった。この一週間は、サッカーワールドカップを楽しんだ。フランス対スペイン戦でスペインが勝ち、今日のアルゼンチン対イングランド戦でアルゼンチンが勝った。やはり強い者が残るようだ。今日のアルゼンチンは強かった。イングランドに先手を取られたが、アルゼンチンは終始押していて、負ける気がしなかった。決勝はどんな試合になるのか楽しみである。日曜から大相撲が始まり、大の里の連敗はショックだった。大の里は取る前から自信ない顔つきをしており、悲壮感があった。三日目で初白星をあげたとき、新聞の見出しに、横綱初白星を見たとき笑ってしまった。さすがに5日の取り組みは安定して勝ちをおさめた。プライベートの一週間は、大江健三郎の「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」を読んでいる。第3部の「狩猟で暮らしたわれらの先祖」まで読み進んだ。難解でなかなか進まない。しかし、焦らず読み進んでいる。YouTubeで鴻巣さんの解説を聞き、エミリーブロンテの「嵐が丘」を読みたくなり買ってしまった。

今回の言葉は、蕪村よりいただいた。蕪村流ユーモアであり、共感できる好きな句だ。勉強したことはそのうち忘れるが、蛍の光に譬えたのが面白い。頭から入れて尻から出す。まるで食物と同じである。何が栄養となったのか考えてみるのは大事なことだと思う。蛍の季節になったのもこの句を選んだひとつの理由である。蛍は光を放ってはじめて蛍だとわかる。人間も勉強で学んだ生きかたを実際に自分のものとして光の軌跡を残す。その光を別の人間がながめ、生き方に取り入れる。学んだことはそのままでは役立たない。尻からぬける光がエッセンスであり、吸収したあとに残るものである。

TaoChat@1336編集後記

どんよりした空で梅雨真っ盛りだが、雨は降らない一日だった。昼食を早めに済ませ、散歩してきた。湿度が高いので、背中に汗をかいた。

今日は、サッカーワールドカップのアルゼンチンとカーボベルデとの戦いに釘付けになった。それにしてもカーボベルデの選手の奮闘は素晴らしかった。PK戦に持ち込んだら、勝っていたかもしれない。

初出場で最強豪チームにあれだけ戦えれば、選手たちも思い残すことはないだろう。

この一週間のビッグニュースは、日本の対ブラジル戦での活躍だが、今一歩及ばなかった。個人レベルでどうしても差がついてしまう。でも確実に、日本チームは強くなっている。各選手が個人レベルで技を磨くことが課題になるように思える。

今日はアメリカの独立記念日だが、独立宣言に盛り込まれた思想が、現アメリカでは実施されていないのが悲しい限りである。

基本的人権は移民への差別主義で踏みじられている。かつてはアメリカは、夢を実現する有力候補地だったが、今は行きたくない国になってしまった。

プライベートの一週間は、大学の教養学部のクラスの同窓会に行ってきた。

50年以上が経過しているが、顔を合わせると昔に戻ってしまう。若くして亡くなったクラスメートの思い出話で盛り上がった。サッカークラブに属し、朴訥とした若武者のような男だったが病魔に倒れた。

昨日は有休をとって、銀行口座を2つ解約してきた。銀行も病院と同じで、解約するにも時間がかかることがわかった。預金をゼロにしているのですぐに終わるのかと思ったが、印鑑がないと手続きできないのが不便である。アメリカなら署名でOKなところ、とにかく印鑑を求める。ネットバンクの口座解約は簡便に終わるのはありがたい。そもそも口座開設に印鑑など用いなかった。

読書の方は、大江健三郎氏の「新しい人よ眼ざめよ」を読み終えた。バリ島で出会ったレイン・ツリーの話が出てきて、次の小説につながっていく。葉に水を溜め込むので、雨が止んでも雨を降らせ続ける木ということがわかった。一度見てみたい気もした。

キーコという女性も登場し、若かりし僕との関係も綴られる。「個人的な体験」にも眼が向いてしまう。

今回の言葉は、陶淵明の詩の一節から選んだ。最初は、「帰鳥」から選ぶつもりが、「生と死のことば」(岩波新書)で見かけた「形影神」のほうに眼が移った。

タオに心が向くのは、経験がそうさせる場合が多いが、自分の場合は若いときから腑に落ちた。相性というのだろうか、論語を読んでも堅苦しさを感じなじめなかった。

禅僧が、禅になじむきっかけを話すことがある。玄侑宗久氏が荘子になじんだのも、きっと若いときに出会って腑に落ちたのではないかと勝手に思っている。

TaoChat@1335編集後記

台風が通過する予報が出ており、一日中雨模様である。3日前から家内が風邪を引いてダウンしており、洗濯物がたまっているのが気にかかる。食事の用意の買出しは、車で済ませたところである。当然ながら、この三日は自炊している。今日の昼飯は、豚肉とキャベツを買ってきて焼きそばを作ってみた。

ソースと混ぜるとき、水を入れすぎたようで、麺がべたべたになってしまった。

この一週間のニュースは、やはりサッカーワールドカップで日本が決勝T進出できたのが大きい。二位通過だったので、決勝Tではいきなりブラジル戦となった。これも運命で、思い切ってぶつかるしかない。今の日本の実力なら、勝てない相手ではない。

プライベートの一週間は、家内のダウンの影響が大きいが、とにかく何とか食だけは確保している。読書のほうは、大江健三郎の小説を読み続けている。イーヨーの誘拐事件の話は緊張して読んでいた。犯人はその後捕まったのだろうかと思いながら読んでいた。

障がい者の世話にかまけて、社会運動に気が乗らない大江氏への反発から誘拐を実行したが、身勝手な犯行といえる。

作家には作家なりの信念で作品を書いているのだから、読者としてはその思いをまず尊重するのが筋だろう。イーヨーも解放後犯人からの電話を受けて、あなたは悪い人だと素直に感情をぶつけるシーンにイーヨーの心が垣間見られる。

今回の言葉も、老子からいただいた。

へびの尻尾をへびがくわえているシーンを想像させる言葉である。今起こっていることを考えるのは、過去をそしゃくすることと同じである。何故なら、今起こっていることは、過去何回も起こったことである。

道を学ぶと言うことは、歴史を学ぶということのようである。人間はいつでもそう突飛なことは考えない。時代は変っても同じような場面に出会えば、同じようなことを考える。

どこでどう間違ったのか気付くのは後のひとである。過去の過ちを繰り返さないためにも、先人が歩いた道を何度も振りかえる必要がある。

TaoChat@1334編集後記

梅雨らしい一日になった。雨の予報が出ていたが傘を持って散歩に出かけた。書店に寄って本を漁って出てきたら、雨が降っていた。裸足にスポーツサンダル履いて雨の中を歩くのもなかなかいいのものである。歩くたびに素足の指の間を風が抜けるのが気持ちがよい。スニーカーだとどうしても蒸れる感じがする。

この一週間のニュースは、サッカーワールドカップのオランダ戦で引き分けたのは印象深い。先に点を取られてもすぐ追いつくという渋とさが光るゲームだった。明日のチュニジア戦も期待したいが、是非とも先制点を取ってほしい。イランとアメリカの停戦合意はなされたが、いつまたアメリカが合意を破り戦闘を開始するか信頼が置けない。

プライベートの一週間は、新たな発見が多かった。Yuja Wangというクラシックの女性ピアニストを知り、YouTubeで豪快な演奏を聞き、感動した。きっかけは家内からすごいピアニストがいると聞いたことである。演奏するときのドレスも露出度が高く個性的である。演奏も超絶技巧の域に達している。ラフマニノフの曲をJAZZ風にアレンジした曲を流すサイト(ラフマニノフ・イン・ジャズ Better Than Perfect)を見つけ、これも気に入っている。自分としては超絶技巧よりも、リラックスして聞け、心が躍るリズムとメロディで演奏してくれるほうがありがたい。ジャズを通してクラシックのよさを味わいたい。読書の方は、大江健三郎の小説を続け、さらに真田幸村に関する解説本「実伝 真田幸村」(角川文庫)を読み始めた。大江氏の小説は、大江氏が障害児施設のために書いた台本「ガリヴァーの足と小さな人たちの国」に息子イーヨーが作曲した曲が加えられた話にさしかかり、劇が演じられる場面でのイーヨーの言葉と行動にが胸を打たれた。真田幸村の本は、大阪城の真田丸にいくまでの幸村の生の軌跡を知ることが出来た。幸村の生い立ちは、身分の低い母親のため、自分より後に生まれた信幸を兄とされ、信幸に真田家の家督がわたるという厳しい現実があった。父昌幸の方針で、兄は徳川方、父と幸村は豊臣方にわかれ、乱世を生き抜くことになった。幸村は関が原で負けた後は、十数年間蟄居の身だったが秀頼より誘いを受け、大阪城で運命を共にすることになった。そのあとの活躍はいわずもがなだが、家康の首を取ることに専念した果敢さは誰にも真似ができないと思われる。どこを落とせば戦に勝てるか知り尽くしていたようだ。

今回の言葉は、老子の「絶学無憂」をいただいた。学ぶことは生きるうえで大事だが、学び方を間違えると、憂いが増していく。結局は学ぶ目的を認識しているかどうかで決まる。生成AI真っ盛りの現代だが、コンピュータに学ばせても、学ばせ方を間違えると、出てくる答えは信頼できないものになる。仏教の修行では、経典をいくら読んでも、仏になることはできない。学んだことが行動に生きてこないと学んだことにならない。たとえ学ぶのを止めても憂いはなくならないだろう。ただ憂いを増すような余計な学びを止めることで、要らぬ憂いを抑えることができるだけである。生きることは身体から日々学びを得ることだと実感する。死に近づいていることを身体が教えてくれる。そのメッセージを無視するわけにはいかない。

TaoChat@1333編集後記

湘南地方も梅雨に入ったようだが、涼しく過ごしやすい梅雨のようだ。あちらこちらでアジサイの花が咲いている。うちのアジサイは定番の青紫だが、散歩で見たのは白いアジサイである。こちらは珍しいので頭に残っている。梅雨といえば、雨の中のアジサイが思い浮かぶ。小学校の2年生のときの梅雨に、弟が腎臓病でなくなった。自宅で葬式を挙げたが、棺の置いてある部屋から見た、庭のアジサイが雨に濡れる姿が目に焼きついている。それが自分にとってのアジサイの思い出である。今も思い出すので悲しみはそのときの情景のなかに埋め込まれるのだろう。今朝は寝床のなかで、斎藤幸平氏と佐藤優氏のYouTube対談を聞いていた。ロシア通の佐藤氏の話はいつ聞いても新鮮である。斎藤氏の持論に対し佐藤氏の率直な考えを知ることが出来た。

この一週間のニュースは、皇位継承問題でいろいろな案が出てきたのが印象的だ。皇族数を確保するために養子制度を導入する案も出ているそうだが、やはり血統を重んじて、女性天皇もありといういうのが筋のように思える。国際ニュースでは、マスク氏のスペースXがナスダックに上場したのは大きい。スターリンクで宇宙ビジネスも収益をもたらすことを実証したのはひとつの貢献でしょう。エネルギー問題にも貢献できる可能性もある。プライベートの一週間は、本郷和人氏の「武士とは何か」を読み終えた。大江健三郎氏の「新しい人よ眼ざめよ」は少しずつ進んでいる。イーヨーの行動の裏に潜む精神のゆらぎを懸命にくみ取ろうとする筆者の思いが伝わる。ブレイクの詩から啓示を受けるプロセスを興味深く読めた。

今回の言葉は、アランの「幸福論」よりいただいた。「53短剣の舞」に出ていた言葉である。過去を後悔したり、未来に悩む前に、もっと現在に立ち向かえと言う教えである。それこそが生きがいを与えてくれる。今の積み重ねが人生であるとするなら、今を大切に生きる姿勢が人生を豊かなものにしてくれる。大江氏も息子が障害児に生まれた直後何週間は、彼の生涯を考え死を願ったと「新しい人よ眼ざめよ」に書いている。しかし、イーヨーの行動から学んだことは余りにも大きかった。メルマガでは肉体の痛みの経験を述べたが、精神的な痛みもまた人生に実りを与えてくれる例は文学作品のみならず、身の回りに何度も散見される。