TaoChat@1007編集後記

この一週間も、新型コロナの感染拡大のニュースが飛び交った。

北海道で、富良野の小学生も感染したのは驚いた。

どこから感染したのかミステリーだ。

中国の武漢市が感染源だが、人がグローバルに動く現在、感染スピードは瞬く間である。

不幸にも、クルーズ船の乗組員および乗客は、長期にわたり、船ごと隔離された。

船内での感染はやむを得ずとされた。

この感染問題でわかったことがある。

感染拡大を防止するためには、少数の犠牲はやむなしとする当局の考えである。

戦争では当然の考えである。大隊を死に導くより、小隊の命を犠牲にする。

まさに将棋の駒と同じで、一気に多くの駒を失うより少数の駒を捨てる。

クルーズ船の外国人は、日本当局には見放されたが、本国の国家当局になんとかしてくれと申し出た。国家としては国民の命を守る義務があるから、輸送機を出して、本国に輸送した。

政府の自宅待機の要請も、自宅で重症化するのを待ってから、検査を受けてくれという。感染しても(検査をしないとわからないが)、軽症で直るなら御の字で、他人に感染するのを防ぐ意味で、自宅待機というのが本音だろう。

今回の老子の言葉は、災害に対する人類の対応の歴史を物語る。

問題が小さいうちに手を打てなかった歴史を2000年以上も前の先人が物語る。

一度あることは何度も起こる。

災害は、自然災害と人間が起こす災害の合わさったものである。

しかし、人間が起こす災害の方がはるかに大きい。

新型コロナウィルスが発生するのは、自然の偶然である。

新型コロナウィルスをこうもりが持っていたとするなら、何らかの理由でこうもりから人に感染したのが自然災害、感染後、感染した人が、他の人にばら撒いていくのが人間が起こす災害。それを軽視して、感染拡大させるのが、共同体としての国家が起こす災害。老子の言葉は国家の為政者に対する言葉だから、大事に至るまで何もしなかったね、と為政者にくぎを刺す。

こういう人類の歴史を鑑みると、結局自分の命を守るのは自分であり、個人レベルで、老子の教えを守っていくに尽きると考える次第である。