TaoChat@1194編集後記

今日で9月も終わりである。なかなか涼しくならないが、今日は雨が降って暑さはそれほどでもない。地元茅ヶ崎では、サザンのコンサートが水木と続き、今日と明日で終わる。3時開場なので今日も午後には駅前は大混雑である。チケットは買えなかったので、明日あたり海岸に聞きに行こうかと考えている。この一週間のニュースは、ラグビーW杯でサモアに勝利したことと、女子バレーはパリ五輪予選会でブラジルに負け出場権獲得にはならなかったことが印象に残る。体格からするとサモアに劣るが、スタミナでは勝っており、最後の踏ん張りで勝ちをもぎたった感がある。この調子でアルゼンチン戦も突破してほしい。女子バレーは、今一歩及ばなかったようだ。しかし、まだまだチャンスは残っているので応援をつづけたい。

プライベートの一週間は、気がかりの足の方は痛みもとれ何とか以前の調子に戻っている。「転落」と「バガヴァッド・ギーダー」を読み終え、インド哲学関連のYTUBEをいくつか見ている。茂木誠氏の古代インドの講義は面白い。民族の移動と宗教の関係を歴史的な視点で関連付けているのでわかりやすい。

今回の言葉は、昨夜の月見からきっかけを得た。最初は雲に隠れて見えなかった月が空に現れたときはすばらしいと思った。この月を見ることができるだけで幸せに感じた。孤独感の中で見るときは、涙があふれると思った。蕪村の句で月にかかわるものを探し、この句に行き着いた。この句のすばらしさは、「なみだに砕く」という表現にある。月が砕けるなんてありえない。でも涙の一粒一粒に月が映っているなら、月が涙のなかに入り、光る玉に見えるだろう。そんなイマジネーションで蕪村は月を見て悲しむさまをとらえた。そのようにに私のイマジネーションも働いた。蕪村の眼は天空の月から、涙が放つ光に向いている。蕪村の句に、「みじか夜や毛虫の上に露の玉」がある。蕪村の眼はマクロな情景からミクロな情景に展開する。みじか夜は、夏の短い夜が明けたころをいう。夜明けの庭のマクロな風景のなかに毛虫を見つけ、毛虫の毛先に露がついているのを見つける。いやそうではない。最初に見つけたのは、露から発する光ではないか。光の正体を見つけようと眼を凝らすと、なんと毛虫だった。光を追うことで、マクロからミクロに視点が移っていく。今回の言葉も、千千の玉から発せられる光をたどると、涙のつぶに行き当たり、それが月のなす業に驚かされる。こんな句の味わい方もあるのだろう。自然が生み出す美しさは、個々人が持つ観察力しだいで、縦横無尽に広がっていくのだろう。