TaoChat@1010編集後記

この一週間、足の親指の横の痛みも大分消えて、押せばちょっと違和感を感じるまでになった。この痛みは外反母趾でも起こるようで、痛風の痛みと区別がつきにくいそうだ。靴によって歩いているときの痛みが異なり、今は靴の側面の生地が柔らかなスニーカーを履いている。

昨日は門前仲町の居酒屋で退職の送別会があった。招待してくれた仲間は、今の職場に来た前の会社の仲間である。さすがにこの時期、居酒屋は空いていた。隣りのテーブルが空いており、一人置きに座る余裕もあった。

今の職場は計8年間お世話になったが、この磯の香りがする下町情緒の街もこれが最後だと思うとなぜが寂しい思いがする。求職活動は継続しているので、4月からは自宅で巣ごもり生活に入る。

今回の言葉は、蕪村の句を選んだ。新型コロナ騒ぎで、各地の桜まつりも中止になっている。近所の公園の桜も花見ができるほどになっている。そこで蕪村の句で、花見にいった気分になっていただきたいと思った次第である。

昔も今も、花見は桜の花の下で酒を酌み交わし、自然の恵みを分かち合う、庶民の楽しみの一つである。酒が心をリラックスさせ、桜の花の色と香と散るさまに、春の喜びを感じる。感動の言葉に共感し、自然の美しさを共有する。これは日本人ならではの興趣である。

蕪村の時代も、桜の下で居眠りする幸せがあった。居眠りする「いとま」は、最高のぜいたくである。臨終も、桜の花に包まれて眠るように旅立てば、自分が死んだことさえ忘れる最期を遂げられる。蕪村がそこまで考えたかは不明だが、西行の歌が頭にあったことは想像に難くない。

西行の欲のはじめやねはん像 (蕪村)

釈迦と同じように、桜満開の最高の時期に涅槃に行きたいなんて、僧として欲のはじめじゃないの西行さん、と詠む句が、「いとま」を使った裏づけのような気がしています。