TaoChat@1059編集後記

2月もあっというまに過ぎた。

今日は朝から寒い風が吹いている。

この一週間は暖かい日が何日か続いたので、庭の木蓮の白い花がいくつか開いた。

自然の移り変わりを見ていると、心がなごむ。

世の中では、菅首相の息子と総務省官僚の会食の話題で持ちきりだった。飲み会は断った事がないと豪語する内閣広報官もいるが、自腹で会食しなかったのは公務員の倫理規定違反に相違ない。会食にさそった東北新社幹部は辞職しているのに、会食した公務員は給与の一割カットでは、懲罰の釣り合いが悪すぎる。お役人は接待を受けるのが当然と官庁では考えられているらしい。コロナ禍で国民が苦しんでいるのに、菅内閣周りでいまだにこんなことが世の中で取りざたされているのが、情けなくてしようがない。

接待を受けた官僚は懲戒免職くらいの厳しい処分がないと、官僚の目は覚めないようである。

今回の言葉は蕪村の句を選んだ。春になって春一番が吹き、風の句を選ぼうと句集を探してみた。選んだ句に風の文字はない。しかし、風の存在が暗に含まれる句のほうが味わい深いと考えた。この句は、これまでたびたびTaoChatメルマガに登場していると思う。この句との最初の出会いは、森本哲郎氏の蕪村の紹介本だったと思う。森本氏の思想は大好きで、著書を何冊か買い求めた。哲学科出身の新聞記者だったが、蕪村への造詣が深く、「詩人与謝蕪村の世界」「月は東に」の本を書かれている。哲学的視点で蕪村の句を考察されているところが氏の面白さであり、自分の句の味わい方も、氏に学ぶところが大きい。氏は7年前に他界されているが氏の教えはこころの中に残っている。

いかのぼりの句は静的であり動的である。静的な部分は、幼い自分の記憶をいかのぼりの定点に見出しているところである。動的な部分は、いかのぼりは絶えず流れる風により支えられているところである。風は明示されないが風は句に絶えず流れていて、いかのぼりの定点保持に寄与している。いかのぼりを記憶とするなら、流れる風は時間の流れである。時間は流れても記憶は流れないで、流れに浮いている。

 

たこには思い出の絵が描かれている。遠くから眺めているので、正確な映像はつかめない。暗い思い出は美化され、ほろ苦さのなかに心地よさを見出す。そんな情景を蕪村の句に思い描く。