TaoChat@1072編集後記

今日は雨は降っていないが蒸し暑い。梅雨に入ったような模様である。

世の中は東京五輪に向け、ワクチン接種にやっきになっている。菅首相は何がなんでも開催する意欲であふれている。緊急事態宣言下でも開催するのであろう。ワクチン接種が遅々として進まない日本を危険視して、アメリカまでが渡航禁止をしているというのに。責任はすべて自分がとると菅首相はいっているようだが、収拾がつかなくなったら、ごめんなさいで辞職するのが関の山であろう。犠牲が幾ら出ても、コロナに打ち克った五輪を演出できると踏んでいるのだろうか。あるいはこれを足がかりに秋の総裁選を乗り切ろうとしているのか。まあ、結果は神のみぞ知る。

今回の言葉は、蕪村の句をお届けしました。梅雨のころ、思い出すのは五月雨の句である。芭蕉最上川の句も有名ですが、蕪村のこの句も、自然と人間の対比を詠んでいるところが心温まるポイントだと考えます。蕪村がこの句にまつわる俳画を描いたかどうかはわかりませんが、あったとしても不思議はない。この句を読んで映像が浮かんでくるというのが正しい。正岡子規も蕪村のこの句が好きだったらしい。メルマガでは万物斉同まで解釈が及んだ。細菌のような微生物から、大鵬のような巨大な生き物まで自然は斉しく扱う。人間がコロナワクチンを開発すれば、コロナは変異種に姿を変えることで、ワクチンによる抗体をすりぬけようとする。コロナと人間は互いに鏡のような存在ともいえる。お互いに相手の弱いところを衝いてくる。そして、互いに新たな武器を創造して攻撃の威力は増してくる。ワクチンを打ったから安心できるわけでもなく、引き続き防衛手段をとらなくてはならない。

コロナ対策で大事なのは、自分がコロナウィルスの身になって、人間のどういう行動が隙になるのか考えることである。その隙をなくせば、ある程度の防衛は出来るはずである。ワクチンを打ったから、すべてが元通りの生活になると思ったら大間違いである。その油断がコロナにとって、攻撃のポイントになる。人間の細胞自体が、細菌と共生しながら、健康を保ってきた経緯がある。老荘思想のすぐれた点は、ミクロからマクロまで連続性の中で物事を考える点にある。自分は細菌にとってマクロだが、地球にとってミクロである。しかし、ミクロの人間の日々のカーボン排出がマクロの地球環境に影響を与える。ミクロの五月雨の雨粒がマクロの大河の水かさを増し、ミクロの人間の生活環境に影響を及ぼす。マクロの政治の力は、ミクロの有権者の選択の総合で決定される。すべてが蕪村の句によって暗示されているように思う。

最後に今朝YOUTUBEで聞いた円覚寺の横田老師の管長日記で引用された句を紹介します。一茶の句です。

送り火や 今に我らも あの通り