TaoChat@1187編集後記

台風が近づいているので、日は出ているのに雨がぱらついたりする変な天気である。

いつもどおり早朝散歩に出かけ、すでに5500歩歩いた。夜に雨が降ったためか、普段耳にする蝉の声が少ない。このブログは、毎週土曜にまぐまぐから配信しているメルマガ、「老荘的小話」(ID番号;M0053112)の編集後記です。メルマガはもう20年以上続けており、1000号をとうに超え、どこまで続くか楽しみになっている。「老荘的小話」を英訳すれば、TaoChatになるかなということで、この名前を使っている。

最近読んでいる本は、通勤では、オースターの「写字室の旅・闇の中の男」、寝床では、クンデラの「存在の耐えられない軽さ」、書斎机に向かっては、大澤・橋爪の「ゆかいな仏教」です。オースターの本は、「闇の中の男」から読み始め、読み終ったものの、ストーリー展開がいまいち理解できず、消化不良気味です。今のところ、面白みを感じているのが、「ゆかいな仏教」です。大澤・橋爪両氏の対談からなるシリーズは他に2冊買いましたが、仏教からはじめています。大澤氏の疑問に橋爪氏が答える形式をとっているが、キリスト教ユダヤ教との比較をしながら仏教の真髄を説明しているので、理解が知らずに広がっていくように思います。

今回の言葉は、墨子からいただきました。戦争が当たり前の古代中国の戦国時代に、兼愛・非攻を唱えた、墨子の存在意義は大きい。平和の基本は人類愛だとずばり指摘し、この基本はいまだに変わらない。他国民を自国民と同じ人間と考えれば、他国を攻撃する論理は生まれない。自国民さえ生き残ればよいと考える為政者は、結局のところ、自分さえ生き残ればよいと考える為政者と同じである。為政者が黒といえば、国民は白に見えていても黒という。ヒトラーユダヤ民族虐殺計画を支持したのは、ドイツ国民である。白に見えていても黒という国民の危うさも墨子は指摘する。墨子の言葉は、国民の平和への意識の重要性を喚起する。