TaoChat@1153編集後記

今回も編集後記が遅れてしまった。なぜ遅れるのか振り返ると、メルマガ原稿が仕上がるのが昼近くになるため、午後の予定に編集後記を組み込む時間がなくなってしまうためのようである。午後の予定と言っても、細かに組まれているわけではないが、頭がそちらに向いてしまうようである。宮台真司氏が襲われたのが先月29日で、そのことに触れようとしながらすっかり忘れていた。氏が無事に生還されてひとまずは一安心だが、犯人の意図は全くわからず、今も逃走中であり、再度狙う可能性もあるので警戒する必要はある。現在宮台氏はネットで感想を述べているが、刺された後、救急車が現場に到着したのが50分後というお粗末さが現実だった。それだけの時間なら、切られた場所が悪ければ、出血多量で亡くなっている。命に別状はないという報道は、私もいつも不思議に思っている。何箇所も斬られていて何時間も手術を受けていて、命に別状はないというのはおかしい。医者がいうには、助かったのは千に一の奇跡だったそうである。言論が封殺の恐怖で萎縮するのが耐えられないということで、宮台氏は何もなかったように振舞っている。その姿勢は言論界に対し強力なメッセージとなっている。昨日地元茅ケ崎市で殺傷事件が起こり、被害者の方は亡くなられた。インターフォンで呼び出され、いきなり斬りつけられたという無謀さで、しかも犯人はこれまた逃走中である。突如襲う身の回りの危険から身を守る術はないのだろうか?

今回の言葉は、蕪村の句をいただいた。「方丈記」の冒頭を意識した句のようである。川の流れは常に変化し、決して同じ川を保っていない。つい最近、ZOOM会で取り上げたパラドックスの話のなかで、テセウスの船というものがある。船の部品が全部交換されたとき、それはもとの船と同じといえるのかという問題である。方丈記の川の水も絶えず流れていて、もとの川にあらずということになり、「テセウスの船」の別バージョンと考える事ができる。蕪村は、その水が凍ってしまえばもとの水のままとなり、川の一部はもとの川として残ると反論しているようだ。この世のすべてが変化し、もとのままの形は残らないというのが無常感である。しかし、そこに変わらない一部のものがある。それこそが自分のアイデンティティとなる。あなたのアイデンティティは何か?を問う、今回の言葉でした。