TaoChat@1149編集後記

今日も天気のよい一日のようである。洗濯物の干して、我が家に泊まっている犬の散歩をして、メルマガ原稿を書いた。まだ2歳のオスの犬なので、元気がよく走って移動する。それに歩調をあわせる高齢者は走らされるので、普段使っていない筋肉を酷使することになり、足の筋肉が痛くなっている。犬の方は3泊4日の滞在で今日帰った。ということで、この一週間は犬を中心に周った。犬のいい所は感情が通うところで、食事をしていると近くに来て、おこぼれにありつこうとする。えさの時間までだめだというと、素直にあきらめてさびしそうな顔をする。実に表現力が豊かであり、家全体が明るくなる。従って、いっとき明るかった家が、犬が去ることで寂しくなったような気がする。普段の家にもどったのだが、何かがぽっかり欠けたような気がする。世界の一週間は、ポーランドにロシア製ミサイルが撃ち込まれ、市民2人が亡くなった。相変わらず、ロシアは相変わらずウクライナにミサイルを撃ち込んで、民間施設を破壊している。この状況に世界はなす術がなく、ポーランドへのミサイルはウクライナからの迎撃ミサイルだという始末である。ロシアの侵略から守る、ウクライナの防衛が起こした悲劇という図柄を作り出している。いつの間にかロシアの侵略が日常化して、防衛で躍起になっているゼレンスキー大統領を非難する人間まで現われている。北朝鮮のミサイル発射は今も続いているが、これも日常化しており、そのうち漁船への被弾も時間の問題となっている。あたってしまったとき、岸田内閣がどのような対応をとるのか興味が湧く。あたったほうが悪いのか、あてたほうが悪いのかを議論する前に、なぜ日常化するに至ったのかを議論したほうがよい。

今回の言葉はゲーテよりいただいた。寛大になるには年をとればよい。プーチン習近平を見る限り、ゲーテの言葉はあたっていない。彼らはあら70だが、ちっとも寛大ではない。自国の領土拡大で頭が一杯である。隣国の国民の気持ちどころか、自国民の気持ちも無視して、野望のなすままに動いている。愛すべきは自国のことだけ、ロシア・ファースト、チャイナ・ファーストである。これが国連安保の常任理事国になっているのだから、目もあてられない結果を招いている。どちらの国も、過去の歴史のトラウマにとりつかれている。ロシアはモンゴル族の征服、中国はアヘン戦争の敗北。いずれも、軍事力がないために惨敗したトラウマにとりつかれ、とにかく強固な軍事力で領土拡大する野心をむき出しにする。それを正当化するために、自分の権力は長期に維持する必要がある。それを現実化しているのが現状である。ゲーテ先生のロジックは、過去の過ちは他人の過ちを見てよみがえり、他人を自分と同一化するプロセスで、寛大になるとしている。プーチンは、チェチェンジョージアやシリアで過ちを繰り返すが、過ちと認識しておらず、死ぬまで過ちを続けるという事態に陥っている。これでは寛大になりようがない。寛大になるプロセスは、どうしても、他人のふりみて我がふり直すという心がけが基礎になる。この基礎なしに寛大にはなりえない。ナチスを目のかたきにするプーチンだが、ナチスのふり見て、自分もナチスのふりにならっているとしか思えない、ウクライナ侵略である。アーリア人の誇りを唄ったヒトラーと、ロシア人の誇りを唄ったプーチンは不思議に重なっている。