台風が通過するため、夜中も雨が降り続き、今朝も雨が降り、メルマガを発信した現在は雷鳴が響いている。予報では午後は雨が上るようなので、駅まで散歩し、図書館に予約していた本を受け取りに行こうと思う。曇りなので歩くには最適な天気である。
この一週間のニュースは、エリザベス元女王の国葬と、プーチンの部分的動員令の二つが大きいところである。元女王の国葬のほうは、弔問外交もなく、国民の弔意が自然と表れた感動的な葬儀でありました。一方、強行される安倍元首相の国葬は、内閣の判断が強行された形で、弔問外交主導の国葬になる模様である。安倍元首相の生前の業績は一体なんだったのかの総括もなく、ただただ長期政権の功績(?)だけがアピールされるのか? いまはその歪が、巨額の赤字国債と、その借金の利子による圧迫を回避するため利上げもできず、円安の高波に打つ手なしの体をさらしている。プーチンの部分的動員令は、ウクライナ侵攻のための兵士を強制的に集めるという策に出た。ロシア国民は、プーチンから軍事作戦と聞いていた戦争が自分の身の上に影響してきたことを悟ると、そこから逃げ出す勢いが止まらない。ウクライナ国民の生命が脅かされているときは無言だった人間が、自分の生命があやうくなると途端に慌て始める。ロシア国民の自分ファーストという個人主義が、プーチンの暴虐を後押ししていたことになる。暴君ネロを支えた古代ローマ市民と同じように思えてくる。コロッセオでの格闘技はウクライナでのネオナチを成敗する姿をロシア国民に見せ、強いロシアをアピールし、国民は狂喜した。戦線が思うように進まないと、プーチンは将軍に責任をなすりつけ、軍隊が足らなくなると、軍事作戦から部分的な戦争に言い方を変え、国民から強制的に兵士を徴集する。コロッセオでの格闘技を見て歓喜していたロシア国民は、とうとう格闘技をさせられる兵士として戦場に連れて行かれるはめになった。そして始めて、プーチンも自分たちと同じ、自分ファーストの人間であることに気づいたのである。
今回の言葉は老子からいただいた。曲則全という言葉は好きな言葉のひとつである。逆説的な言葉だが、曲という不完全さは自然の大前提である。人間だけが、神という完全性を作り、神が創った自然は完全性であらねばならないと考えた。人間は罪を犯し、不完全となった。老子は、不完全な形が自然のありのままの姿だという。足がなければ動けないというのは思い上がりで、足がなくても動ける生き物は沢山いる。不完全さを生かして生きている生き物は、人間が気づかないだけで、世界には沢山いる。プーチンという怪物も、核兵器という人類を消滅させる武器をかざして領土拡大を目指す、不完全性の典型のような政治家だが、この怪物はどう処理され世界の平穏に戻すのか、世界の課題になる。核兵器のボタンを握っているプーチンが一番恐れるのは、情報操作でだませなくなったロシア国民である。自分が国民を操れなくなったとき、彼はどこに逃げ込むのか? 彼の行く末を、だれもが注目している。