TaoChat@1107編集後記

オミクロンの嵐が吹き荒れていています。花粉症の私は、この季節、くしゃみ、鼻水、のど痛となり、熱がないだけで感染したかとびくびくしていました。昨日、白内障の手術前にPCR検査があり陰性と判定され、ホッとしています。

一方世間では、感染者が全国で8万人越えで10万まで行く勢いを見せています。まあ、インフルエンザと思えば、ありかなと思います。しかし、感染して自宅待機となるとテレワークがままならないエッセンシャルワーク業務のため、感染だけは避けたい気持ちもあります。手術入院期間中に嵐が過ぎ去るのを期待しています。

今回の言葉は老子です。メルマガにも書きましたが、養老先生の「半分生きて、半分死んでいる」のYouTubeインタビューがきっかけです。養老先生も80を超えて、老子に近づいた感があります。小国寡民が国の理想とどこかで語られていましたし、今回も穴を塞いでつまらない刺激を遮断するというようなことも話されました。

これは年寄りのつぶやきというより、道の教えに回帰していく現象と捉えられます。感覚器官を閉ざして、感覚器官が導く欲望や災いから身を守ろうという教えです。

欲望が身の破滅を招くというのは釈迦の教えですが、仏教伝来前に老子は既に道徳経に書きました。感覚器官を閉ざす方法を老子は教えません。それは、釈迦の修行から始まり、禅宗の座禅に引き継がれていきます。老子が重視するのは、内なる声を聞くことです。希言は自然なりというように、内なる声はかすかに響くので、外からのノイズを遮断する必要があるわけです。というか、内なる声に心の耳をすませば、ノイズは聞こえないようなる。これが不思議なことで、他人の話がまったく聞こえない状態に落ちていきます。精神集中というか、無我の状態というか、もうまかせるしかないというトランス状態に落ちていく。これが幸せの正体なのかもしれません。薬物でこの状態に落ちると、習慣化して中毒を引き起こします。内なる声は、自分のあらゆる経験が背景となり、ばらばらだった知識や情報が一気に線となり形をもってささやきかける。まさに老子がいう希言です。自分の身体の変化もそういった希言で知る事ができます。不思議ですが、私の白内障の自覚も、日常の変化の繰り返しが教えてくれました。