TaoChat@1081編集後記

今日は雨が降りそうな空模様だったが、メルマガ配信した今も何とかもっている。

部屋の網戸にアブラゼミがとまり、じいじい間近で鳴くのを聞いていた。その音量はすさまじい。でも鳴くにまかせていた。セミの命のはかなさに共感するからである。

世の中の一週間は、東京五輪メダルラッシュとコロナ感染の急拡大で終わった。

昨日2回目のワクチン接種が終わり、腕はすこし痛いが発熱もなく無事に済みそうである。毎日5時台の電車に乗って東京まで通勤しているが、緊急事態宣言など何処吹く風で、電車の混雑振りはコロナ前と変らない。最近読んだ本は、森本哲郎氏の「神の旅人」(PHP文庫)である。聖パウロキリスト教伝道の旅を追体験した旅を語った本である。森本氏の本を通して蕪村の面白さを知り、森本氏の本は愛読していたが、「神の旅人」だけは積ん読だった。「神の旅人」を通して、パウロがどのような人生を歩んだかを知った。パウロは最初は熱心なユダヤ教徒キリスト教徒を迫害する側だったが、イエスにより回心して、キリスト教ギリシャやローマに伝え、キリスト教世界宗教となる礎を築いた。新約聖書をところどころ引用しており、新約聖書が多少身近になった。ユダヤ教世界宗教にならず、キリスト教がなぜ世界宗教になったのか、その理由がわかるような気がした。

今回の言葉は、「神の旅人」とは全く関係がない、「臨済録」から選んだ。仏教もまた世界宗教に発展したが、多種多様に分派した。従って、仏教の本を読むときは、釈迦の教えに立ち返って読まなくてはならない。これは禅宗であろうが、浄土宗であろうが同じである。大事なのは、釈迦の教えが頭でわかるのではなく、体でわかるということなのだろう。「臨済録」にもそのことが重ねて説かれる。体からのメッセージを真摯に聞くことの難しさを語る言葉を選んだ。当たり前のことが一番難しい。体からのメッセージは希言だからである。あるときふと語りかける。言葉はかすかで長く続かない。しかしその意味は次第に重くなる。まるで新約聖書のイエスの言葉のようである。その言葉を信じるか否かはからだが判断するしかない。頭では理解できないからである。これは仏教もキリスト教も変らない。