TaoChat@1098編集後記

昨夜は、元会社の同僚とほぼ一年ぶりの飲み会をやった。コロナ禍のなか、互いの健康を祝して乾杯した。居酒屋での飲みは話が弾み、2件はしごをして4時間半に及んだ。家飲みが続いたので、昨日はやや飲みすぎの感であった。

この一週間の出来事は、中学生の刺殺事件がショッキングだった。いじめの被害者が加害者になってしまったのがなんとも悲しかった。こういう事件が起こると異常性だけが取りざたされるが、いじめ被害者になれば誰もか起こしうる事件だと思ってよい。包丁やナイフが身近にあれば、対抗手段としてその柄に手を触れる可能性は誰にでもある。

メルマガでは荘子外物篇から言葉を選んだ。この事件と結びつける積もりは当初はなかったが、この事件に救いの道はなかったのかと考えるうちに、自然のなりゆきで結びついてしまった。外物はどうしようもないことというのが外物篇の始まりである。

学校においては、いじめはどうしようもないものと考えてよい。ささいなことからいじめが始まる。本人が不快に感じるあだ名もいじめにつながる。いじめはエスカレートする。いじめる相手は、どこまでいったら本人が怒るのかみたいので、いじめの頻度を上げる。会社でそういういじめの場面に遭遇した。飲み会の席だったが、いじめられた本人はいきなりいじめている人間の顔を殴った。殴られた方はあっけにとられ、それ以降いじめを止めた。

荘子の言葉は、外物というどうしようもないことにどう向き合うかを教えてくれる。

あきらめずにどう対処したら、やり過ごせるのかを懸命に考える。その訓練を若いうちにやらないと大人になってから、外物は次から次と現われる。毎度落ち込んでいたら身が持たない。そんな気持ちから今回のメルマガ原稿を書きました。