TaoChat@1087編集後記

空は曇りがちで、雨もぱらついている。また蒸し暑いので、扇風機をかけている。

すると外からつくつく法師のセミの声が聞こえてきた。まだ夏のなごりが残っていると感じた。セミも最期の夏を満喫しているようだ。

今週の出来事は、菅首相が総裁選不出馬の弁を語ってから、総裁候補が名乗りを挙げてきた。岸田さんも高市さんも河野さんも派閥の長の顔色をうかがいながら、あたりさわりのない政策目標を掲げている。面白いのは、一月万冊で語られるように、岸田さんは日和見で安倍さんにそっぽを向かれ、高市さんは安倍首相に後押しされメディアのあちこちで存在感を増し、河野さんは官僚の垂れ込みで文春砲にたたかれ、候補者の足の引っ張りあいになっている。岸田さんのノートに書かれていた、国民の声はどこに飛んでいったのか? 安倍疑惑の解明は頓挫したというより、そんなものは始めからなかったと岸田さんは宣言した。衆院選は、どんな総裁が自民党の顔をなりえるのか? 誰がなっても同じなら、いっそのこと傀儡の高市さんでもいいかなと思ったりもする。女性初総理の顔を見てみたい気もする。いずれにしても安倍さんのあやつり人形としてどう動くか興味がある。

今回の言葉は、道元禅師からいただいた。「正法眼蔵」は難解で、随聞記どまりだったが、頼住光子氏の「正法眼蔵入門」(角川ソフィア文庫)のお陰で、少し理解が深まった。道元禅師は日本最初の哲学者であると思った。特に時間の考え方は画期的である。時間は流れていくのではない。時間は流れ、人もモノもそこに流されていく存在ではない。時間は生きている今しかない。今の連続が時間だとしたら、時間は今を積み重ねる自分が作り出していくものだと思った。ここでひょいと思い出したのが、YOUTUBEで菊谷隆太氏が語った話である。菊谷隆太氏は親鸞の教えを説く活動をされていて、仏教のイロハを理解するうえで彼のYOUTUBEはためになる。どういう文脈ででてきた話か忘れた。酒飲みが、断酒するために坊さん(?)に言葉を書いてくれと頼んだ。その坊さんは、「今日だけは酒を呑まない」という言葉を書いた。酒飲みは今日だけ禁酒すればよいと考え明日を楽しみにした。日が変って酒を呑もうとすると明日は今日に変っていた。この話も、人もものも今という時間しか生きることはできないことを意味している。つまりは今という時間に修行し、今という時間にさとりを得ることになる。今という時間の先にさとりが訪れるということではない。今のこの一瞬に真実のスナップショットが顕現する。それは雲に覆われていた月が一瞬姿を現すことなのかもしれない。その月は自分の心なのだからどう見えたのかひとに語る必要はない。輝く月もあれば翳る月もある。