TaoChat@1053編集後記

一月も半分過ぎました。今日は暖かくなるという予報が出ているので、散歩日和といえる。庭の木蓮も新芽を膨らませている。

コロナの状況を見ていると、家庭内感染が増え、医療も逼迫しているようだ。

重症化しても入院ができず、自宅で亡くなるケースも東京や神奈川で出ている。海外から見ると、医療が充実している日本がどうして医療であたふたしているのか疑問に思うだろう。その原因は、日本では緊急時に国家が強制措置に出られないことにある。中国なら強制的に医療関係者を集め、コロナ患者医療センターを設立し、リソースの集中を行なうことができる。日本ではお願いベースで進めるため、判断も遅く対応も遅い。治療を待っているうちに亡くなるのは当然の結果とも言える。

中国にならえとはいわないが、日本政府は今の状況が予測できたにもかかわらず、一年準備を怠った責任は大きい。菅さんはオリンピック開催に執着しているようだが、開催できるシナリオを自身で持ってるのかは疑わしい。言葉の勢いにまかせている感が強い。

今回の言葉は公案からいただいた。きっかけは、元旦から「歎異抄をひらく」を読んで、そのつながりで「輪廻と解脱」を本棚から引っ張り出して読み始めたことにある。

読書も縁に引っ張られて続いていくようです。「輪廻と解脱」の終わりに、隻手の公案が出ていて、それを取り上げてみようと思い至りました。禅語はこれまでも何回かTaoChatで取り上げましたが、公案は初めてです。Questionを投げかける言葉なので、正解は在りません。各人がある場面でQuestionを思い出し、こういうことなのかもしれないとハッと気づく事が大事だと思われます。半導体物理でも、電子とホールが衝突すると光が出てくる。電子が右手でホールが左手なら、それが衝突して光という音(波動)が生まれる。生まれた光(波動)のどの部分が電子の寄与かホールの寄与か問うのは難しい。つまりは衝突(出会い)という場が光を生んでいることに気づく事が大事なんだと教えているようです。電子やホールが個別に存在しても光は生まれない。

親が出会って光の子である自分が生まれたからには、自分もまた光を生もうとするのがブッダの教えのようです。そのためには衝突という場が必要になる。それが悟りという場のように思いました。