TaoChat@989編集後記

昨日の大雨が過ぎ去り、今朝はよい天気である。

メルマガTaoChatも989号を重ね、1000号達成も間近になっている。

富士山登山なら、あと僅かで頂上に近づいている状態で、心がわくわくしている。

なぜメルマガ発行を続けているのかと自問すると、自分の心を支えるものの一つになっているからという答えが返ってくる。

毎週お届けする言葉を見つけ、それについて考えることをまとめてお届けするだけだが、それを1000回近く続けられたのは、読者を含む周りの人間の助けがあってこそと、感謝する次第である。

今回は、老子の言葉である。

NHKの「100分de名著」で、西田幾多郎の哲学を特集している。

難解な哲学で有名であるが、番組を聴いていくと、なんか老荘思想と似ている点もあると感じていた。

主客合一とか、純粋経験とか難しくいわなくても、わかりやすい例を挙げていけば、それなりに理解されるのではないかとも思ってしまう。

今回のメルマガは、西田さんの言葉から、老子の言葉を見直すきっかけを得て、見直した結果をまとめてみた。

善の研究」は読んでいないので、「100分de名著」を聞いて、西田哲学の主張を理解しているに過ぎない。従って、まったく外れた解釈かもしれないことをあらかじめ断っておきたい。

モノやコトを認識するといっても、いろんな先入観があるので、ある色眼鏡でそれを見てしまう。

先入観は言葉で表現されていることが殆どなので、言葉によって識別されたモノやコトは、本質とは別な側面に光があてられ、当てられたところが本質を表わしていると人は誤解する。

その怖れを西田哲学は警告する。

人と人がよい関係を築くには、言葉になる前の心を直覚しなければならない。

言葉をそのまま受け止めると、心を見誤る可能性がある。

心に反する言葉を浴びることもあるからである。

和光同塵の章における、光とか鋭とかいう老子の言葉に、言葉が持つ限定性、いわゆる言葉で表現されると、言葉以外の側面が捨象されることを気づかせてくれたのが西田さんの言葉である。

しかし、言葉なしに本質を伝えることもまた難しいのだが、それを補うのが仕草であったり行動であるのだろう。