TaoChat@992編集後記

穏やかな秋の日を浴びる幸せを得ている。

恵みの秋というが、日の光と光に映える紅葉、そして秋の味覚を味わえる日本の秋はこのうえない幸せといえると思う。

最近、YOUTUBEで経を聞いて唱える楽しみを得ている。

般若心経、修証義の経は心を落ち着かせてくれる。

今も、道元禅師の正法眼蔵随聞記の朗読を聴きながら、ブログを書いている。

今回の言葉は、現成公案から拝借した。

道元禅師の言葉が身にしみるのは、やはり歳を重ねたことによると思う。

高校の倫理社会の授業で、正法眼蔵随聞記を読んだ事があるが、心に響いたという記憶はない。

それが今、読み直すと、なるほどと思えてくる。

善悪を知り尽くし、欲に溺れ無茶をしたことも沢山あるが、道元さんの言葉を聞きなおすと、日々の修行の積み重ねが、生きる喜びを与えてくれると思えてくる。

不思議な気持ちだが、宗教とは別に、人間の生き方をあらためて教えてくれる言葉である。

修証義を知ったのは、大愚和尚の法話のとき、因果の3つのパターンがそこに書いてあると言われたからである。

修証義は、明治23年に『曹洞教会修証義』として交付されたもので、正法眼蔵の真髄をお経の形でまとめたもののようだ。

このお経も、総序は毎日聞いている。

自分とは何者か? を問い詰めてくるお経である。

今回の言葉は、法に身をまかせ、自分とは何者か? を知る事がさとりと言っているようだ。

自分が見た世界は、自分の意志を超えた力によって生み出される。

法という、世界の真理を知ることで、その巨大な力を自己にとりこむことができる。

法の力を生きる力に変えることが人間の宿命なのかもしれない。