TaoChat@1015編集後記

相変わらず混みあっているのは、スーパーとホームセンターで、駐車場は埋まっている。最近は、開業しているパチンコ屋に行列が出来ている。

パチンコ屋の名前を公表するから開いている店がすぐわかり、そこに殺到する。

三密を防ぐため、パチンコ台を外に出し、間隔をあけて配置すれば、その努力を評価されるかもしれない。何週間も自宅待機していれば、外の空気を吸いたくなる。

5月連休中は山小屋も閉鎖される。山登りは、間隔をあけて登れば、格好の運動になる。その反面、どこやらのゴルフ場では、国会議員たちや会社社長がゴルフにいそんしんでいるのかもしれない。メンバーやその家族のプレイは許しているゴルフ場はまだ多い。

アベノマスクの提供が始まったと思ったら、不良品だらけで、送付していないものは全品回収となった。こんな裏目が出るのも、感染症対策の準備を怠ったつけが回っている。国民一人ひとりが、自分で自分や家族の命を守らなければ、誰も助けてくれないことがわかっただけでも、コロナの意義は大きい。

今回の言葉は、老子から選んだ。久し振りの老子である。

老子の言葉は逆説的である。

有るということと無いということは、相補的である。

一言で言うと、老子第二章にある有無相生(うむそうじょう)である。

光があるのは闇の中である。闇は光が無いことで、宇宙の大部分は闇である。

夜空を見ればそれがわかる。

光を希望とすれば、闇は絶望である。希望は絶望の中にある。

用(役割)は無用から生まれ、無用は用から生まれる。

科学的発見は、誰も見向きもしなかった事実から生まれる。

無用のこととして切り捨てれば、科学的発見は生まれない。

新型コロナも無用物の一つですが、コロナによっていろんな問題が見えてきたことは事実です。共産党独裁体制の中国では、都市封鎖は即時に行なえ、自宅待機を強制的に行なえます。それにより、発生源にも関わらず、死者は5000人弱で、米国の5万人の1/10以下に留まっています。

感染者差別も、国に依らず、日本でも起こっています。新型コロナの感染力を甘く見ていた日本政府は、クルーズ船を隔離病棟にしたて船内感染を拡大させました。

感染症専門家も最初は、マスクの効用は感染した人には効果があるが、未感染の人には効果がないと言っていました。そのうち、感染者が出す飛まつによる感染が支配的だとわかると、未感染者のマスクも大事だと言い始めました。

つまりは、感染症専門家も新型コロナに関してはど素人で、知ったかぶりの意見を信じると馬鹿をみるということに気づかされました。

国は正しい情報を伝える義務がありますが、それをせずにメディアにせかされる形で対策を打つ体をなしています。PCR検査も消極的で、感染者数が上るのを見かけ上阻止する策をとったようにも見えます。医療崩壊はすでに起きているのに、医療崩壊させないように、感染軽症者は自宅待機してくださいという。重症化しても病院をたらい回しにされる。投資家はポストコロナの経済動向を云々していますが、ひとの命のために国は投資しろとまずは言いたい。何のための政治なのか、今回の新型コロナが問いかけさせてくれました。そういう点でも、新型コロナの役割は大きいと考えます。

敵の力が強大になるにつれて、従来の戦い方を見直すけっかけを与えてくれる。