TaoChat@1040編集後記

朝から雨が降って、寒い一日が始まろうとしている。

庭の木の葉も黄色に変っているのを見かけるような季節になった。

今週の出来事は、日本学術会議の任命問題がくすぶっているのと、トランプさんがコロナから復帰し、大統領選の巻き返しを図っているのが目立った所だろうか。コロナ治療薬のレムデシビルが効果なしというのも初耳だった。日本ではとっくにアメリカに追随して認可している薬だ。許可取り消しにしないとおかしいが、これも米国の目の色をうかがって従うのだろうか。

この一週間の読書は、夏目漱石の「我輩は猫である」だった。500ページちょっとで、「明暗」と同様、昔から読みたい本だったがつい後回しになった。今回時間がとれるので新潮文庫を買い込んで読んでみた。どれも個性的な登場人物にあだ名をつけるので、坊っちゃんみたいに思える。時代背景は明治の世なのだが、発言は現代的で、特に女性の発言はきわめて現代的で面白い。老荘とどう関係があるかは、読んでみてのお楽しみである。独仙先生がそのフレーバーをかもし出すが、猫の飼い主の先生は共感するも、いまいち浸りきれない。今回の言葉は、作中の鏡に関する言葉を選んだ。

自分の顔をしげしげと眺めるのは鏡を見るときである。女性はお化粧をするので鏡を見る事が多いが、男性はこんな顔をしてたっけ、こんなに老けたのか、と鏡を見て、自分の歴史を再確認する。漱石もいうが、落ち込んだとき、自分がいやになったとき、鏡を見ると救われる。頭で考えてた自分を鏡に映し出すと、それが思い違いだったことに気づかされる。本当の自分は鏡に映し出さないと見えてこない。目は心を表すという。鏡に映った目を欺くことはできない。お前は何を考えているのか、鏡の目に問う事ができる。愚かな面を見るほど、つらいことはない。しかし、その面を作り上げてきたのは、今まで生きてきた自分である。そういう愚を自分で認識していることが大事だという。

確かに、禅の教えもそれに近い。老荘の教えも近い。鏡の中の自分をいつも見られるように、心を鏡にする。明鏡止水がそれだと思う。