台風19号が接近している。
地元茅ケ崎でも、役所のスピーカーから避難勧告が流されている。
停電になる前に、慌てて今回の言葉を仕上げた。
今回の言葉は論語からである。
人間の社会では、公平性が大切である。
治世側からは、とにかく人心を安定にさせることが政治基盤を磐石にする要諦になる。
公平性は、国民の納得感に由来する。
納得感はあきらめ感といってもよい。
そこまで政治が頑張ってくれているなら、まあ仕方がないかというあきらめ感である。
年金制度といい、社会保険制度といい、国民が政治の失策のしりぬぐいをしているのが今日この頃である。
老荘思想を高校から愛好してきた自分は、社会の掟の上位に自然の掟を老荘から学んでいる。
そのため、年金制度の破綻も社会保険制度の破綻にも動じていない。
戦後、池田勇人首相が、貧乏人は麦を食えといって物議をかもした。
しかし彼の発言は裏返せば、論語の今回の言葉にもとづいているような気もする。
貧乏なときは、皆麦を食って飢えをしのげば、それは公平感を持つかもしれない。
隣人も麦を食っていれば、それなりの納得感は得られる。
確かに戦中も戦後も、国民はお上の言いなりになっていた。
戦中は、戦争に勝つために、みんな貧乏して我慢しましょうと言った。
戦後は、復興のために、みんな貧乏して我慢しましょうと言った。
それなりに生活レベルは向上して、公平感をもっていた。
その公平感が崩れたのは、少子高齢化社会の到来である。
戦後復興のために産めよ増やせよと生産人口の増加につとめていたのが、そのあとの尻ぬぐいの準備を怠っていたのが自民党政治の大失策だった。
いまこれを言っても遅いのだが、わたしがこの失策をさめた目で見れるのは、老子と荘子のお陰だと思っている。
自然界では、食物連鎖が生死のサイクルの恩恵をもたらしている。
自分の死は、他者の生に役立っている。
死という公平性が、自然界の掟ということを教えてくれた。
寿命の長短の差はあれ、どんな生き物も死を生の恵みとして受け入れている。
生の力をなくしたとき、死を迎えるだけである。
どうやって死ぬかも考えていない。
すべて生の燃焼を終えて、燃え尽きたとき死を迎えるだけである。
路上のせみの骸を見つけたとき、ご苦労さんといえるなら、老荘の考えは心に宿っているといえる。