癒し効果を期待して、自室で線香を焚いている。
線香といっても、ラベンダーやヒノキの香りの線香ではない。
仏壇にすえる本物の線香である。
白檀、沈香、伽羅と香木に3種類あるが、これまでは白檀を使っていた。
香りも昔ながらの仏壇の香りがする。
最近、ネットで沈香の線香を買った。
ところが、煙も白檀より少なく、香りも弱く、何か期待はずれだった。
灰も飛散しやすく、香立てから外にこぼれる。
同じ線香でも材質が違うと、こうも違うのかと驚いている。
こんなことに気づくのも、線香を焚いてみないとわからない。
線香の話はここまでで、本題にもどる。
今回の言葉は、「禅語」100選で見つけた。
禅語なんだから、禍福無門は、因果応報ではまずいだろうと思う。
老荘的に考えると歎異抄に行き着くというのは、全く外れたことでもない。
老荘は宗教ではないが、自然の教えを尊重し、私を捨てて、道に従うというのは、ある意味、信心といえることかも知れない。
善悪、幸不幸というのは人間の尺度だが、自然界にそんな尺度はない。
生きるために他の生き物を殺し、自分が死ぬときは他の生き物の栄養となる。
これが自然界のおきてであり、子供は独り立ちを余儀なくされ、自分で獲物を捕らえなければ死に至る。
人間界だけが、いつまでも親の保護のもとで高齢化する子供が増えている。
独り立ちさせなかった親がいけないのか、親を見捨てなかった子供がいけないのか、いろいろあると思う。
親としては、子供の幸不幸をどう考えるか大事になる。
老荘的には、子供が独り立ちして、自分の家族を築き、次の世代を育てていければ、最高に幸せな子供と考える。
それが、人間界の甘えを断ち切った、親の愛情だと思う。
いつまでも子供を自分のそばに置いておく親は、生きる厳しさを子供に教えないという点で無責任で、子供を不幸にする親とも言えるのではないか。