TaoChat@1213編集後記

今日はよい天気で気持ちがよい。連休なのか、道路が混んでいる。車で家内を駅まで送りにいくとき、そのことに気付いた。メルマガの方はどの言葉を届けようか、ネタ本を探しに本箱を漁った。最終的には、「ゲーテ格言集」に行き着き、全頁を流し読みして、今回の言葉にたどり着く。これに関しては後ほど感想を述べたい。

この一週間の出来事は、週始めの初雪がプライベートでは印象的。火曜日は朝4:30起きで、防水のトレッキングシューズをはいて駅まで歩いていった。車道は雪は左程残っていなかったが、歩道には雪が残っていて融けているので歩きにくい。そのため、車の通らない車道のへりを歩いた。我が家の雪は今も残っている。屋根から落ちた雪が北側の道路に届き、それが融けないでいる。暖冬のこの冬いつまで残るのか楽しみである。

パレスチナの方は、イスラエルハマスの完全停戦案をネタニヤフは拒絶した。イスラエルは人質よりもハマスの絶滅を大事にする。人命よりも国の威信を大切にしている国であることを証明する。面白かったのは、ロシアの大統領選の話で、ウクライナ侵攻に反対している2候補の立候補を選管が却下した。要はプーチンの以外の立候補を認めず、彼ひとりが当選する結末が仕組まれる。ロシアに民主主義がないと世界にアピールしているようだ。

今回の言葉は、ゲーテよりいただいた。「ゲーテ格言集」を斜め読みすると、面白い言葉に行き当たる。「科学、自然、二元性について」の項目に、自然の言葉を見つけることができる。「美は、隠れた自然の法の現れである。」雪の結晶を見れば明らかである。種まきの言葉は「人生について」にあった。人間社会では、種まきと、取り入れとは別のひとであることが多い。数学の「フェルマーの最終定理」は、フェルマーが種まきをして、取り入れは350年後のことである。種まきすることは、価値ある目標を設定することである。価値がなければ、だれも取り入れを目指さない。だいそれた発明発見でなくても、個人的な人生においても、種まきの意義は大きい。苦しい生活のなかで子育てはかなわないと悩まず、まずは子供を持って育ててみるのも種まきのひとつである。子供の取り入れは最終的に社会の仕事である。それを忘れた日本は、今少子化の問題にぶちあたっている。種まきなしの取り入れはありえない。

 

TaoChat@1212編集後記

メルマガ配信した昨日は、時間が取れず、編集後記は今日になった。今日は東京では午後から雪がふるそうだが、湘南では天気がよくなりそうな空模様である。今朝新聞を見ていたら、コロナ感染者がまた増えているそうだ。東海地方にいる義母も96歳で介護施設でコロナ感染し、2週間ほどで元気に生還した。ワクチンのおかげで熱は出たものの、症状悪化は抑えられるようである。私もコロナ感染を避けるべく、通勤途上や、職場でもマスクをしている。この一週間のニュースは、海外ではアメリカがイラン軍への報復を行い、3人の米兵死者に対し、10倍返しの45人の死者を生み出している。ガザに対するイスラエルの100倍返しと同じ理屈である。力に対し力で応じている。しかし、人質は帰っておらず、ガザ市民の恨みは増すばかりである。禍根を残す戦は結局負け戦である。交渉で禍根を残さないように国土を決めれば、平和が戻ると思われるが、宗教対立が絡んでいるため、複雑化していると考えられる。日本は原爆を落とされてアメリカに負けたが、日本人に禍根は残っていない。もしGHQ天皇制を廃止していたら、禍根が残っていたかもしれない。宗教は絡んでいないが、国の伝統を無視する策には抵抗を感じるのは当然である。パレスチナの民はそもそもそこに住んでいて生活基盤をそこに置いていた。そこに突然他所から、欧米から力をもらったユダヤの民が押し寄せてきた。それがパレスチナの伝統を無視した策だった。どんな国民だって抵抗するのは当然である。その立場を理解せずに、力で押し切るのは横暴の何者でもない。

今回の言葉は老子からいただいた。老子は自然の掟を大事にする。自然界では、強者が弱者を食い尽くすことはしない。地上の最強の生き物だった、あの恐竜だって、気候変動に対し適応できなかった。自然界は持ちつ持たれつで、強者は弱者の恩恵をこうむって生き続けられたわけで、気候変動で弱者が消えると、弱者を食っていた強者も絶えることになった。平和のためには、仏教の教えが必要となる。自然界には強者も弱者もない。自然の掟を超える強者は存在しない。最強の独裁者にも自然死は訪れる。死のメカニズムは、独裁者の細胞のなかに組み込まれている。自然の掟が、独裁者の命を決めている。自然の掟を理解すると、自分が因縁によって生かされていることを自覚できる。

そのような自覚があれば、決して、弱者を排除するような対応は取れないはずである。老子の教えは、きわめて自然で当たり前の教えだが、力や富をそなえてくると途端に見えにくくなる教えでもある。

TaoChat@1211編集後記

歳が明けたと思っていたら、もう一月が終わろうとしている。能登地震インパクトが大きかった。今朝のYoutubeで、内田樹さんが、能登志賀原発でトラブルが起きていたのに、政府に隠そうとした姿勢がうかがわれると語っていた。そもそも総理が現地に急行しなかったのも不思議だった。自民党の政治資金隠し問題でアップアップしていたこともあるが、初動が遅れたのは明らかだった。災害が起きたときに、どう動くかで国の国民に対する姿勢が明らかになる。自衛隊の派遣も遅れ、災害レスキュー隊の派遣も遅れた。その割りに、内閣支持率は25%をキープし、自民党支持率も30%と他党を圧倒している。国民も政治批判する気も失せている状態である。

この一週間のニュースは、JR東日本の新幹線の架線トラブルと、JAXAの月面探査機のピンポイント着陸が印象的だった。架線トラブルの方は、架線を引っ張る錘を吊る鉄棒が破断したことが原因だった。目視ではOKだったそうだが、やはりX線で内部の亀裂を調べないとだめだと思う。月面探査機の方は、どのようにしてピンポイント着陸が可能になったのか興味がある。目標地点から55m外れていたそうだが、その精度は素晴らしい。個人的には、NHKの「魔改造の夜」が印象的だった。トイレのおもちゃを宙返りさせてきれいに着地させる技を競うものでした。参加したのは、東工大パナソニック、O社(中小企業)の3者。完成度の高かったのは、東工大で優勝した。何がよかったかというと、飛ぶ距離は及ばなかったが、着地がうまくいった点。パナソニックは、距離は出たが着地はだめで、目標レベルまでのギャップが大きいと感じました。東工大は、着地がうまくいっているので、距離を伸ばす対策さえできれば、課題はそう大きくないと感じました。O社は、最初は逆送し、2回目は動かずで、チャレンジ以前の問題のように思った。

メルマガの言葉は、列子より選びました。川合康三氏の「生と死のことば」(岩波新書)で見つけました。列子の文庫本は持っていましたが、積読でしたので、これを期に読むことにします。孔子と隠者の問答は荘子にも出てきますが、列子にもあるのは知らなかったです。列子道家の本なので、当時支配的であった儒学の考えにまさる考えとして、タオの思想をアピールしたものと考えられます。タオには、生きている間に生を楽しむ姿勢が旺盛なのが素敵です。今回の言葉でも、貧乏が強調されているので、金をかけないで人生を楽しむことになる。そのためには、自然界に目を向けることになる。自然界はうそをつきません。自然界にだまされたと思うときは、人間の目が思い込んだことになる。光の屈折で蜃気楼を見るように、人間の目がだまされることになる。列子の言葉でいいところは、死が終わりを決めている点です。苦しみも楽しみもすべてそこで幕が下りる。それまでどう楽しもうが個人の自由。そこがタオのいいところ。

TaoChat@1209&1210編集後記

前回のメルマガTaoChat@1209の配信後、博多に出かけていたので、今回分とあわせて、編集後記を書きたいと思います。今日の天気は、どんよりと曇り空で雨も降り出し、雪に変わりそうな天気です。芭蕉の句に、似た天気を詠んだものが見つかったので、今週の言葉に取り上げました。博多行きは、大学の教養学部のクラスの同窓会への参加のためです。これまで同窓会はいつも東京でやっていましたが、九州在住の旧友に幹事をやってもらい、博多でやることになりました。博多は初めて行きましたが、福岡空港に近く、非常に便利な都会です。屋台による時間はありませんでしたが、ヌルボンという焼肉屋で焼肉とミニモツ鍋、一幸舎で豚骨ラーメンを食べました。モツ鍋もラーメンもとてもおいしくいただきました。博多ではラーメンとモツ鍋を外せません。欲をいうなら、もう少し滞在して、他のラーメンや鍋や屋台、他の料理も味わってみたいと思っています。大宰府にもいきたかったのですが、時間が取れませんでした。

地下鉄がスイカが使え便利なので、筥崎宮にお参りして孫娘の合格祈願をしてきました。博多往復の機中で、ホイジンガーの「朝の影の中に」を読み終えました。この本を読むと、今もって人類が戦争を続けている理由がわかるような気がします。

この間、自民党の派閥の違法な裏金作りが明らかになった。しかし検察は、要人の立件を見送り、とかげの尻尾切りで終わる模様である。情けない限りである。自民党と組んで穏健に終わらせた感がある。渦中の自民党では、派閥解散で難を逃れようとしている。裏金づくりの不正を派閥を解散して、雲散霧消化する目算である。派閥をつぶせば波を越えられるという軽い対応に自民党らしさが現れている。

今回の芭蕉の句は、面白しで始まるのがよい。詳しくはメルマガに書いたが、自然の風景を見て先ず感じた心を頭にもってきたことで、句のインパクトが強まる。雨が雪に変わることを望む気持ちと、一面白銀世界になった景色を思い浮かべて、面白しが出たように思う。一見すると単純な句ですが、芭蕉の心の動きを思い浮かべると、味わい深くなると思います。

TaoChat@1208編集後記

今年は辰年ということで年男になりました。元日に息子家族が家に集まったとき、能登地震のニュースが入りました。茅ヶ崎でも、ぶら下げているシーリングライトが揺れました。その後津波の模様とか、倒壊したビルや家屋の映像が入り、地震のすごさを目の当たりにしました。死者行方不明者の数が日増しに増え、心を痛めています。更に羽田でのJAL機と海保機の衝突事故もあり、今回の言葉に行き着きました。

辰年の始まりは、衝撃的なニュースでいっぱいです。人々に心を引き締めてスタートしてくださいと神様が告げているかのようです。海保機には、能登地震の支援物資を積んでいたので、慌てずに行動せよと神様が申し付けているように思いました。JAL機の乗客・乗務員が全員避難できたことは、不幸中の幸いでした。日ごろの訓練どおり、慌てずに行動できた結果だと思っています。初詣は近所の八王子神社で済ませました。年末年始は、YOUTUBEで、「人生に、文学を」オープン講座のシリーズを見ていました。作家が自作にこめた思いを語るものです。高橋源一郎小川洋子さん、西村賢太さん、村上由佳さん、浅田次郎さん、中村文則さん、内田樹さんを拝聴しました。皆面白かったのですが、高橋源一郎さんと小川洋子さんが引き込まれてしまいました。その話を聞いて、小川洋子さんの「ことり」を読むことにしました。高橋源一郎さんの話から、漱石の「こころ」を読み返すことにしました。

今回の言葉は、マーフィの法則の本から選びました。元祖マーフィの法則は、If anything can go wrong, it will.(何か問題が起きるとすれば、それは起こる。)です。そこから派生して、いろいろな法則が展開されていて、そのなかのひとつを選びました。

今回の言葉は、元祖マーフィの法則が成り立つ現象のプロセスを述べたものです。問題は事件や事故といってもよい。なぜ事故は起こるのか? 正月の羽田での衝突事故もマーフィの法則が成り立っているようです。事故は起こるべくして起こる。偶然とみなしている限り、何度も同じ事故は起こりえる。大きな問題は小さな問題の積み重ねからなる。これは大丈夫だ、あれも大丈夫だ、それも大丈夫だ。すべてを見過ごして、取り返しのつかない大事件、大事故につながる。そのプロセスを今回の言葉は述べている。今回の事故もその一例に過ぎない。旅客機の場合、乗員数が大きいので、乗務員が判断を間違えば死者も多くなる。管制官の仕事も、分刻みで離発着する航空機の軌道管理を行わなくてはいけないので、集中力を維持するのが大変である。こんな状況の中、能登地震の支援物資を積んだ海保機にも早く飛び立ちたいという焦る気持ちがあったのかもしれない。そして時刻は夜で、視界が途絶える。普段なら事故につながらない見過ごしも、折り重なって最悪の事態を招く。そのプロセスを今回の言葉は戒めるように思えた。

TaoChat@1207編集後記

今年も残すところあと2日である。大掃除もまだ終わっていないが、とりあえずメルマガの原稿は書き終えて、発信準備も終えた。明日は雨ということなので、大掃除だけは済ませたい。今年を振り返ると、初体験がいろいろありました。湯沸し器の温度センサーが故障して風呂に入れない日があったこととか、台湾旅行のためにe-SIMを使ったこと、翻訳アプリで台湾の方と会話したこととか、家内とともに救急車に乗ったこととか話が尽きません。でもすべてに共通していることは、あわてずに落ち着いて臨めば、問題は解決していくことです。ケセラセラという言葉がありますが、なるようになるさということです。この言葉はスペイン語なんですね。ラテン系は楽天的に考えるようですが、まさに、なんとかなるさで人生を終えたいと思います。

最近読んだ本は、小津夜景さんのエッセイ「いつかたこぶねになる日」で、これはとても面白かった。彼女はフランス在住の俳人なのですが、この本では、漢詩を現代詩のように訳されている。これがなぜか新鮮さをかもし出し、漢詩の堅苦しさが抜けて、詩人の感性が直に表面に現れてくるのが感動的です。平安時代の貴族、桑原広田磨の水中の影という詩が気に入りました。それを味わった彼女の文章では、「存在は非存在に支えられている。非存在は存在に支えられている。なにものも固有の本質へと還元されなどしない。....世界の底はからっぽである。」ところが好きです。この言葉は、来年のメルマガの言葉にしようかと思ったくらいです。

今回の言葉はことし最後の言葉なので、老子から選びました。自然の働きは、もとに戻っていくという言葉です。復るがキーワードです。かえるー還る-帰る、いろいろ表記できますが、とにかく原点に戻るということです。では原点とは何か? ポール・ゴーギャンの有名な絵、「我々はどこから来たのか我々は何者か我々はどこに行くのか」でいうところの、人間の起源であり、現在であり、未来であるといえると思います。自然の働きでいえば、原点は起源になります。星は生まれたところに帰っていく。宇宙空間で生まれ宇宙空間に帰っていく。では人間だけが起源から離れ、未来に向けて帰っていくのか? しかし、起源が抱えた制約に寿命というものがある。科学は寿命という制限の原因をつきとめ、永遠の生命を目指そうとする。しかし、地球に人間が溢れたら、食料や燃料が枯渇する。そのために人間の寿命を人間自身が制約するという事態が訪れるかもしれない。こうなるとデストピアの世界になってしまう。老子のことばは、人間はいくら進化しても、自然の起源が与えた制約からは逃れられないと教えているようである。

TaoChat@1206編集後記

メルマガ発行の後やることが続き、二日遅れの編集後記となった。仕事の準備に土曜を使い、年賀状を書くのと、窓拭きで日曜を使った。今日は天気がよいので、ブログを書いた後は散歩に行く予定。この一週間は、なんとなくあわただしく過ぎ去った。大学時代の同窓会の連絡が急にあり、博多までの航空券とホテルの予約を手配したり、昔の職場の同僚との忘年会の連絡をしたりで忙しかった。仕事のほうも来年の仕事の準備がたまっていて、手際よくこなさねばならなかった。あと残すところ2日になり、年内に目処をつけなくてはならない。世の中のニュースは大きなものは特に無かった。

今回の言葉も荘子よりいただいた。湯川秀樹先生の書にもなっている言葉である。天地自然の偉大さと謙虚さを述べた言葉であり、科学者はいつも心しておかねばならない言葉である。科学者だけではなく、自然を愛する人間なら、心に留めておかねばならない言葉でもある。自然の美しさは、人間が作ったいかなる美にも勝る。その理由は、変化する美であり、ある時点でしか味わえない美であるからである。たとえ写真に撮ったとしても、その美しさは実際目にしたものと比べると足元に及ばない。自然の美の根源は、自然の道理に従っているが、その道理は謎に包まれていて人間は再現できない。夜空の星は光を放つが、その光は過去のものである。しかも光がどのように生じ、どのようにやってきたのか、人間はその軌跡をたどることができない。人間の目は星が今光っていると感じる。星の存在を光で認識するが、星は今は存在していないかもしれない。

荘子の言葉は、自然の謎に挑む人間のささやかな野望を自覚させてくれる。