TaoChat@1109編集後記

今日もいい天気で、少し前に40分ばかり散歩した。

冬季五輪の種目中で一度やってみたいのが、スケルトンである。いわゆるそりだが、氷でできたコースを腹ばいになってそりで滑っていく。北京五輪のコースは1600mほどで最高速度毎時120キロ以上になる。

こちらは高齢者だからそんな高速では身体がもたない。適度な傾斜で長い距離を滑ってみたい。滑走面すれすれに視界が動くので、スピード感はけっこうあり、ジェットコースターよりスリル満点だと思う。今回の北京五輪では、スケルトンには日本選手は出ていなかったが、中国の選手は銅メダルを取った。氷の壁にそりをこするだけで、スピードが遅くなる。1600メートルを1分で滑るので平均100キロ近いのスピードは出ていることになる。E-スポーツのゲームでスケルトンがあるなら、是非チャレンジしてみたい。身体のバランスでカーブを曲がるので、それを体験できれば臨場感は出る。

今回の言葉も荘子から選んだ。大地に立つには、足元の土だけがあればいいわけではなく、それを支える周りの土があってはじめて動けるという言葉である。人間には足元の土しか見えない。しかし、それを支える全体の構造をイメージしないと大地に立つことすらできない。液状化しやすい土地の上に家を建てても、地震で沈下する。見えない部分に目を向けないといけない。五輪で勝つには、鍛えた身体と精神だけではまだ足りず、自分を支えるすべての構造に思いを傾けないといけないようだ。荘子の言葉はそれを教えてくれる。

TaoChat@1108編集後記

天気予報から今朝は雪景色を拝めると期待していましたが、昨夜の雨も上がり、からっと晴れた朝でした。先週は白内障手術入院をしていました。金曜に退院して、土曜のメルマガ配信はしたものの、編集後記はのびのびになっていました。もともと強度の近視でコンタクトをつけてかろうじて車を運転できる視力を保っていたのですが、手術後は裸眼で日常生活できるようになり、大きな感動を味わっています。こんなに世界が明るくて、くっきり見えるのが驚きです。デスクトップやテレビの液晶画面が急に明るくなり、白内障で見ていた暗い世界が急に開けて、精神的にも明るくなり前向きになったように思えます。今までは風呂やプールや海でコンタクトが落ちないか心配でした。これからはそういう心配もなくエンジョイできるので、何か天からチャンスをもらったありがたさを感じています。

北京五輪が開幕され日本選手の活躍を見ていていると、若者の果敢なチャレンジは高齢化日本を救うと確信しました。果敢なチャレンジは、スポーツだけでなく、学術や事業や芸術のチャレンジにわたります。政治はこれらのチャレンジの障害を取り払う努力をしてほしいものです。

今回の言葉は荘子大宗師篇から選びました。入院中、マンガ老荘の思想(蔡志忠 作画)を読み、手術前の緊張した心を落ち着けました。荘子の中でも、気に入っている箇所でもあります。死生は命なり。人生はひとつのチャンスなんだという気にさせる言葉です。荘子は、道がお前に与えたチャンスなんだから、精一杯頑張ってみたらどうだといっているようです。白内障手術の前後で、これほど見える世界が異なるとは思ってみませんでした。これは一つの啓示だと思います。術前の朦朧とした世界も今の世界も本質は変わりません。それを見る目を変えれば、全く違って見える。その両方を知る事ができたことはタオの道を歩む自分としては宝の一つだと思います。

TaoChat@1107編集後記

オミクロンの嵐が吹き荒れていています。花粉症の私は、この季節、くしゃみ、鼻水、のど痛となり、熱がないだけで感染したかとびくびくしていました。昨日、白内障の手術前にPCR検査があり陰性と判定され、ホッとしています。

一方世間では、感染者が全国で8万人越えで10万まで行く勢いを見せています。まあ、インフルエンザと思えば、ありかなと思います。しかし、感染して自宅待機となるとテレワークがままならないエッセンシャルワーク業務のため、感染だけは避けたい気持ちもあります。手術入院期間中に嵐が過ぎ去るのを期待しています。

今回の言葉は老子です。メルマガにも書きましたが、養老先生の「半分生きて、半分死んでいる」のYouTubeインタビューがきっかけです。養老先生も80を超えて、老子に近づいた感があります。小国寡民が国の理想とどこかで語られていましたし、今回も穴を塞いでつまらない刺激を遮断するというようなことも話されました。

これは年寄りのつぶやきというより、道の教えに回帰していく現象と捉えられます。感覚器官を閉ざして、感覚器官が導く欲望や災いから身を守ろうという教えです。

欲望が身の破滅を招くというのは釈迦の教えですが、仏教伝来前に老子は既に道徳経に書きました。感覚器官を閉ざす方法を老子は教えません。それは、釈迦の修行から始まり、禅宗の座禅に引き継がれていきます。老子が重視するのは、内なる声を聞くことです。希言は自然なりというように、内なる声はかすかに響くので、外からのノイズを遮断する必要があるわけです。というか、内なる声に心の耳をすませば、ノイズは聞こえないようなる。これが不思議なことで、他人の話がまったく聞こえない状態に落ちていきます。精神集中というか、無我の状態というか、もうまかせるしかないというトランス状態に落ちていく。これが幸せの正体なのかもしれません。薬物でこの状態に落ちると、習慣化して中毒を引き起こします。内なる声は、自分のあらゆる経験が背景となり、ばらばらだった知識や情報が一気に線となり形をもってささやきかける。まさに老子がいう希言です。自分の身体の変化もそういった希言で知る事ができます。不思議ですが、私の白内障の自覚も、日常の変化の繰り返しが教えてくれました。

TaoChat@1106編集後記

昨夜9時半に寝て、目が覚めたら1時半、それから寝て次に目が覚めたのが5時ごろで寝床でYOUTUBEを見て、床から出たのが7時でした。YOUTUBEの最近面白いのは、ホリエモンのチャネルと中田敦彦Youtube大学である。今朝は、斉藤幸平のインタビュー番組と、ホリエモンホンダジェットの話と敦ちゃんのアフリカ・インド時代の到来の話を聞いていた。つまらないTV番組よりYoutube番組のほうがためになる話が聞けるのは今は常識になっている。ホリエモンの情報分析力は説得力が有り、敦ちゃんのプリゼン力に確かなものを感じる。敦ちゃんの諸子百家の説明や老荘思想の説明は要領を得ており、笑いながら本質を学べる。というわけで、メルマガの原稿書きが遅れてしまいました。日向灘地震を知ったのは、Youtubeを聞いている時だった。トンガの火山噴火といい、地震といい、自然災害は時を選ばず襲ってくる。コロナ感染であたふたしている間に地震や大雨が次から次と押し寄せる。やはり、人間はこころの準備が必要なんだろうなと思う。もし....が起こったら、......で対応しようと思考実験して、準備をするしかない。

今回の言葉は、一休禅師よりいただいた。

門松は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし

は正月ならではの言葉ですが、時機を逸した感があり、漏れました。

冥土といえば、今近松門左衛門曽根崎心中冥土の飛脚心中天網島を現代語訳を読んでいます。金がもとで命を落とす遊郭に通う男と遊郭で働く女の話です。角川文庫で原文もついているので、対比しながら読めます。今では心中は珍しい事件ですが、それほど密接になる男女関係に羨ましさを感じることもあります。話をもとに戻すと、今回の言葉は、悟りの道は多けれど、という話です。悟りを目指して、一休さんも修行しました。周りの修行者を見ても、若い者有り、老いた者あり、いろんな道を歩いてきた人々がいる。でも修行道に入ったからには、悟りを目指すことは同じはず。仏教にお経、キリスト教にバイブル、イスラム教にコーランがあるように、修行の道も多々ある。でも大事なことは、その教えを実践することで、寂滅することにある。煩悩が消え、自他の境が消え、大悲の境地に入ることが悟りの境地である。生きとし生けるものが斉同となる。しかし今の世界は格差が進み、悟りと逆行する様相を呈している。一休さんの言葉は、同じ高嶺の月をながめる修行者が思いを一つに、独自の修行を地道に続けるしか、悟りに近づける道はないと教えているようです。

TaoChat@1105編集後記

新年が明けてから、もう半月が過ぎた。光陰矢の如しを実感する。

今日もよい天気である。つい先ほど買い物にでかけたスーパーの屋上駐車場から見える富士山の美しさを思い出した。雪の衣をまとう富士の姿は神々しい。神を宿す山といってよい。この一週間の出来事は、オミクロン感染者の爆発的な増加といってよい。重症化するケースは殆どなく、海外でも時間稼ぎをして自然消滅を待つ戦略が採られている。日本でも以前のデルタ株に比べ対応はゆるやかになっている。Withコロナは、その時々のコロナの特徴に応じた柔軟な対応を採るしかないように思われる。過剰反応も禁物で、コロナ慣れが産む油断もまた禁物になる。

今回の言葉はヘミングウェイの言葉である。ヘミングウェイの小説は「日はまた昇る」「老人と海」「移動祝祭日」と短編集を読んだ。表現は簡潔でストレートだが、そこに繊細な面がにじみ出ており好きな作家である。

Now is the time to不定詞は、今こそ~すべきときという構文だが、Now is no time to不定詞に変えて、今は~すべき場合ではないと訴える。今をどう生きるべきかを教える。

The world is a fine place and worth the fighting for.

と別の場所で言う。この世は素敵な場所でかつ闘う価値のある場所でもある。

つまり生きるとはこの世で闘うことである。誰と闘うのか? 自分と闘うわけである。

You can’t get away from yourself by moving from one place to another.

闘いから逃げようと場所を移動しても、自分自身から逃げることはできないという。

では闘う武器は? そこで今回の言葉に立ち戻る。

闘いが始まった今、自分が今持っていない武器のことを考えるのはやめよう。

自分の目の前にあるものを使って、どう闘うのか考えることに集中しようという。

こういった考えはヘミングウェイの波乱万丈の経験から生まれた。

だが非常に残念なことに、目の前のライフル銃で自らの闘いに終止符を打ってしまった。

 

TaoChat@1104編集後記

新年が明けてはや一週間が経ちました。

一昨日の雪が北側にある庭にまだ残っています。

今日は穏やかな晴れの日になっています。

この一週間の出来事は、在日米軍の基地のある、沖縄、山口、神奈川とオミクロン株の感染の嵐が吹き荒れています。オミクロン株に関しては、水際の対策が有効ということで、空港の検疫はある程度成功しています。しかし米軍は直接基地に飛来するので、水際は基地の周辺を含み、こちらの対策は地位協定の甘さもありまったくなされておらず、沖縄では米軍の軍人がマスクなしに盛り場を闊歩する事態を引き起こしました。米軍には甘い日本政府の姿勢は、国内の感染爆発を招く結果となりました。こわい水際は基地周辺にあったわけです。危機に対し目はいつも外向きですが、本当の危機は内から起こっている。目を内に向けないと内から崩壊が始まる。ローマ帝国の崩壊のように。今回の言葉は、荘子斉物論から選びました。天籟とは何ぞや?に答えた言葉です。

荘子にはたとえ話が多く見られますが、そのたとえは個々人の中で更に展開することができます。逍遙遊篇の始まりも、北の果てにいる大魚が大鵬に変じて、南の果ての海を目指す旅から始まります。このスケールの大きな旅を、小鳥が見て何て無駄なことをしていると笑う。しかし、スケールの小さい者にはスケールの大きな者の企ては理解できないという。小知は大知に及ばない。このたとえは人類の歴史まで展開できる。文明を進化させた者が未開の者を啓蒙し、更に文明は進化する。

天籟もまた、無の空間(穴)に吹き込む風が成せる音楽というたとえである。無という空間は個人ごとに千差万別であるが、奏でる音は無の空間で決まってくる。個人が持つ無の空間こそが個人にとって宝となる。そこに吹き込む風によって、空間は共振し音が自然に出てくる。風は、環境の変化であり、人との出会いでもある。それにより空間は共振し、個人の人生は如何ようにも変化する。まさに天籟は人生そのものとなる。

このように荘子のたとえは、如何ようにも膨らんでいく。そこに荘子の楽しみがある。

TaoChat@1103編集後記

新年あけましておめでとうございます。

茅ケ崎は元旦からよい天気が続き、穏やかな正月を楽しむことができました。

昨日は孫と公園で野球をして、ボール投げの筋肉を久し振りに使いました。

ショックだったのは、孫はヒットが打てるのに自分は三振が多かったことです。身体がボールについていけないのはやはり歳なのでしょうか。

この一週間の出来事は大事件も起きず、平安な日が続いているように思います。

今回の言葉は、「ブッダのことば」(岩波文庫)から選びました。

寅年に関係する名言を探したもののいい言葉は見つからず、お釈迦様に助けを借りました。口の中の斧の話です。その斧は自分の口を切り割く。人を批判するときは、自分が批判の対象となることを思い浮かべる。そうすれば軽々しく批判できなくなる。

新年の言葉には少しきつい言葉ですが、あえて一年の心がけとしたいと思いました。

今の世の中ほど、言葉が斧になって飛び交う時代はないと思います。一つの言葉がたちまち世界を巡ります。いい言葉も悪い言葉も。従って、言葉が斧であるという自覚が大切になります。老子は道の教えは無言だと説きます。その教えを言葉で語ると、それは道から離れます。道は言葉で語れないからです。言葉はレッテルであり、本質の一面を切り取るからです。切り取ったものは本質ではありません。円筒形を上から見ると円ですが、横から見ると長方形です。同じものが全く違って見えます。切り取った言葉を鵜呑みにしないで、視点を自由に変えて、様々な方向からものを見てください。そうすれば、言葉が斧であることに気がつくようになります。