TaoChat@1104編集後記

新年が明けてはや一週間が経ちました。

一昨日の雪が北側にある庭にまだ残っています。

今日は穏やかな晴れの日になっています。

この一週間の出来事は、在日米軍の基地のある、沖縄、山口、神奈川とオミクロン株の感染の嵐が吹き荒れています。オミクロン株に関しては、水際の対策が有効ということで、空港の検疫はある程度成功しています。しかし米軍は直接基地に飛来するので、水際は基地の周辺を含み、こちらの対策は地位協定の甘さもありまったくなされておらず、沖縄では米軍の軍人がマスクなしに盛り場を闊歩する事態を引き起こしました。米軍には甘い日本政府の姿勢は、国内の感染爆発を招く結果となりました。こわい水際は基地周辺にあったわけです。危機に対し目はいつも外向きですが、本当の危機は内から起こっている。目を内に向けないと内から崩壊が始まる。ローマ帝国の崩壊のように。今回の言葉は、荘子斉物論から選びました。天籟とは何ぞや?に答えた言葉です。

荘子にはたとえ話が多く見られますが、そのたとえは個々人の中で更に展開することができます。逍遙遊篇の始まりも、北の果てにいる大魚が大鵬に変じて、南の果ての海を目指す旅から始まります。このスケールの大きな旅を、小鳥が見て何て無駄なことをしていると笑う。しかし、スケールの小さい者にはスケールの大きな者の企ては理解できないという。小知は大知に及ばない。このたとえは人類の歴史まで展開できる。文明を進化させた者が未開の者を啓蒙し、更に文明は進化する。

天籟もまた、無の空間(穴)に吹き込む風が成せる音楽というたとえである。無という空間は個人ごとに千差万別であるが、奏でる音は無の空間で決まってくる。個人が持つ無の空間こそが個人にとって宝となる。そこに吹き込む風によって、空間は共振し音が自然に出てくる。風は、環境の変化であり、人との出会いでもある。それにより空間は共振し、個人の人生は如何ようにも変化する。まさに天籟は人生そのものとなる。

このように荘子のたとえは、如何ようにも膨らんでいく。そこに荘子の楽しみがある。