コヘレトの言葉

旧約聖書の中に、「コヘレトの言葉」がある。

「かつてあったことはこれからもあり、かつて起こったことはこれからも起こる。」

はその一例。

この言葉を引いているのが、今読んでいる、大塚ひかる氏の「本当はひどかった昔の日本」(新潮文庫)です。古典の中に、現代で問題にされている様々なことが昔は当たり前のように横行していたことを見つけられるという。

昔の日本では、妊婦、老人、幼児は働かないので、虐待の対象にされていた。現在では、それがマタハラ、介護施設での老人虐待、幼児虐待と呼ばれている。人買いで有名な、山椒大夫の話や、舌きり雀の昔話での老人蔑視は実例は豊富である。

まさに「コヘレトの言葉」そのものである。驚いたのは、1582年に天正遣欧少年使節団がポルトガルを訪問したとき、日本から奴隷として売られた日本人が各地にいて見るに忍びなかったと報告している。今でいう毒親が金目当てに、子供を異国に売り払った結果だと嘆いている。アフリカから南北アメリカ大陸、西インド諸島に売られた奴隷とどれほどの違いがあるのだろうか。生類憐れみの令の綱吉の貢献は、日常茶飯だった捨て子を禁止したことだそうである。そもそも人類の歴史がおぞましかったので、人間の本性をかいかぶってはいけないというのが、「コヘレトの言葉」である。近代でも、ナチによるホロコースト全体主義の怖さを味わっている。ナチは民主主義から生まれている。ちょっと目を離したすきに、人間は同じ過ちを何回でも繰り返す。

その理由を「コヘレトの言葉」は語る。

「昔のことを心に留めるものはない。これから先にあることもその後の世にはだれも心に留めはしまい。」

昔の過ちは心から消え去るという。日本の赤字国債も過去の過ちのようにもう忘れられているのだろう。いずれにしても傷つくのは国民しかいない。

 

 

 

TaoChat@1102編集後記

朝いちで白内障手術のための事前検査を受けに病院の眼科に行ってきました。従って、メルマガの原稿は一週間前に仕上げました。今日はクリスマスということに気づかず、メルマガでは触れませんでしたが、とりあえずメリークリスマス! 

今週の出来事は、何と言っても神田沙也加さんが亡くなられたのが衝撃でした。子を持つ親として、子が自分より先立つ悲しみは筆舌に尽くせません。それも自死の場合は、なぜ救えなかったのか悔やんでも悔やみきれません。沙也加さんのご冥福をお祈りします。

今回の言葉は、シェイクスピアの言葉を取り上げました。光り輝くものが必ずしもゴールドではない。この言葉はいくつかの意味があるようです。一つは、輝いていなくても金の価値があるものがある。見かけは目立たなくても、心に光輝くものを持っている。その光がまわりの者に力を与えてくれる。それはヒトであったり、あるムーブメントだったりする。もう一つは、文字通り、光輝いているように見えても実は心は沈んでいる。沙也加さんのニュースはまさにこの例かもしれません。さらにもうひとつが、光輝くものが持っている危険性です。輝いていることには隠れた理由があるということです。メルマガではこのひねくれた例を取り上げてしまいましたが、輝いていても、輝かなくても、見掛けで判断しないこと。これが無心で見るということだと思います。

TaoChat@1101編集後記

今日は寒波が押し寄せて、一月並みの寒さとなる日の予報がでていた。

しかし、車のフロントガラスが凍ることなく(一昨日は早朝凍結していた)、寒さは殆ど感じない。スパコンで気象モデルを駆使する予報が外れることもあるのかと思った。自然の流れを人間が知るのは不可能と知りつつ、予報に頼ってしまうのは人間の悲しさか。この一週間の出来事は、米国で竜巻が発生し多数の死傷者が出てのがなんともいたましかった。日本では、昨日大阪北新地で無差別放火殺人事件が起こった。こんな事件は何回も耳にする。最近では京都アニメ放火殺人事件がそうで、関係者に恨みを抱いた犯人が可燃物を持参し放火するものである。これはどうしようもなく、雑居ビルでおきると逃げようがない。可燃物を持ち歩く人を事前に捕まえるのはこれまた難しい。被害に遇わない為には、恨みを持たないようにするしかない。事前に警察に通報しても、犯行に及ぶまで監視してくれるはずもない。とにかく放火は被害が拡大するので極刑で対応するしかない。

今回の言葉は「徒然草」から選びました。完璧なことは味わいがないという話です。

何から何までそろいすぎていると、逆に自分の想像性を刺激する余地がなくなり、面白みが薄れてくる。小説でも映画でも、最後の結末まで書かずに、結末は読者や見ているものに想像させる方が味わいが出る。サスペンスや推理小説もそのへんのテクニックを駆使する。欠けた所に価値を見出すのが老子の美学で、徒然草はその美学を学んでいるようにも見えます。兼好法師老子も、荘子と同じく、自然現象の中でいろんな気づきをしている。例えば荘子には、曲がった木であるが故に、切り倒されることなく長寿の木として生きながらえている話がある。メルマガでは、美の観点で柳宗悦氏の例を出しましたが、かのダビンチのモナリザの絵も、非対称の顔から独特の怪しさがかもし出されているようです。人間の脳の中に、自然界から学んだ不完全性の美学を埋め込まれているでは?と考えてしまう言葉でした。

TaoChat@1100編集後記

今日は天気がよく、そんなに寒くないので散歩したい気分である。夕食はカレーを作る予定なので、ご飯を炊いて食材を買出しに行かなければならない。それに仕事を持ち帰ったので、それも処理しなければならない。忙しい土曜になりそうです。

今週のできごとは、前澤さんの宇宙旅行出発が印象的でした。今はISS宇宙ステーション滞在中です。YOUTUBENasa Live Stream - Earth From Space : Live Views from the ISSを検索すると、ISSから地球を撮影したライブ映像が見られるのも感動します。オーロラのカーテンや流れ星もちらほら見えます。

今回の言葉は老子13章より選びました。身体あっての人生ということが強調されます。高齢者にはうんうんとうなづける章です。章の主題は政治家の資質を問うものですが、今日本の政治家に一番欠けている、国民の命を守るという視点です。コロナ対策のための助成金が、政治家のために支給されているのが最近問題視されました。法的には問題ないかもしれませんが、政治家の資質としていかがなものかといわれても仕方がないでしょう。名誉とか財産とかを大患と捉え、身体と同じように大切にするが、身体なくしてそんなものは意味がないという。国民の身体(命)を自分の身体と同じように考える心得があれば、間違っても助成金をもらおうなど考えないはず。また多額の税金を浪費してクーポンを配って手間をかけさせる手段を選ぶはずはない。政治家たちが国民の生活レベルに立って政策を考えないことが原因になっています。国民の身体(命)を支えているのは、日々の食と日々の仕事と日々の休息です。収入が減り、食の物価が上がれば、身体を支えることはできない。仕事がなければ収入はゼロで失業手当で生きていくほかない。低収入の仕事が得られても、睡眠時間を削ってでも収入確保のため、ブラック企業に使い倒されるしかない。こういった生活レベルに立って国民の身体(命)を支えているかといえば、疑問を呈するしかない。お金のばら撒きより、医療費や学費や住居費の無償化など、本当に困っている人の日々の負担を軽減することに全力を注ぐべきと思います。高齢になればなるほど、食べるための歯、歩くための足、そして休むための静寂な心ほどありがたいものはないと考えます。生きるための基本はみな自分の身体に宿っているわけです。自分のうちにある自然をどう養っていくのか、老子は気づかせてくれます。

TaoChat@1099編集後記

今日は車にガソリンを入れたり、メルマガ原稿を書いたり、歯医者に行ったりして忙しかったので、夕飯前の編集後記となりました。天気がよかったので散歩も出来、本屋で新刊の立ち読みし、時間を無駄にはしなかったように思います。ネットニュースを見ていたら、「千の風になって」を訳詩された新井満氏が亡くなられたことを知った。75歳とはまだ若い。私ならあと5年ほどの命である。でも覚悟はしておかねばならない。新井氏が芥川賞をとった作品を「文藝春秋」で読んだのがはじめての出会いである。私の好きな作家に藤沢周氏がいるが、新井氏と同じ、新潟県人である。私の先祖も新潟出身なので何故だか新潟と縁がある。冬の豪雪の厳しさにじっと耐えてしぶとく生きるというイメージを新潟に抱いている。私の父方のじいさまが新潟から上京して、東京墨田区本所に居を構えてから、自分のルーツが始まると考えている。そこで江戸っ子のばあさまをみそめ父が生まれ、父が山の手の母をみそめ自分が生まれた次第である。そんなこんなで新潟に親しみを持つ人間である。米どころで米がうまく、酒もうまく、柿の種の亀田製菓も新潟にある。話が長くなりましたが、今週のニュースはオミクロン株である。YOUTUBEの一月万冊で、この冬コロナが再流行すると言っていたが、その通りになりそうな気配もある。神様は人間に「奢るなかれ」と次々に新種をたたきつけているように見えます。デジタル庁はできたもののまだ成果はなく、何をやろうとしているのかも国民は知りません。先日、落合陽一氏の「コロナシフトで創る日本の未来」を見ましたが、そこでも日本のデジタルの遅れは深刻なようです。ドイツではワクチン接種記録の用紙を薬局に持っていけば、ワクチン接種証明のQRコードを政府のシステムから発行してもらえ、アプリを使ってワクチンパスポートが即座に得られるそうです。ナチスの歴史があるので個人情報の扱いは厳重に管理され、政府がQRコードから個人を特定することはできないそうです。ワクチン開発でもそうですが技術的に日本が遅れているのではなく、それをシステム化する役所が技術に追いついていないのが原因のように見えます。

今回の言葉は論語から選びました。コロナ禍という危機は、日本にいろんな問題を投げかけました。その現状認識は落合氏の番組も言っている通りです。彼の番組では、外国では問題なくできている事が日本ではできていないという。だがその原因を番組では分析できていませんでした。論語の言葉は、危機に直面すると真価がはっきり見えてくるといいます。国の政治としては、真価のみさだめを誤らないことです。何とか感染者が収束したように見えるのは、ワクチン接種を自主的に受け、マスク着用で感染防止に協力した国民の努力の成果だと思います。システムの不備で命を落とされた方の犠牲も忘れてはなりません。デジタル化というのは手段であり目的ではありません。目的は国民に負担やストレスをかけずに国民が公共サービスが得られるということです。COCOAシステムのようにデジタル化したために、かえって負担が増したのでは話になりません。危機の本質を見誤ると方法論に終始することになります。論語の言葉もまた、真価は自然の成り立ちから学ぶという基本に戻ります。松やひのきの葉は針のように細いため、高く真っ直ぐに伸び、光合成のための日光を確保するしかなかった。日光を確保する戦略は、まさに化石資源の乏しい日本がとるべきエネルギー戦略に重なります。日本は海に囲まれ、火山が多く地震も多い。地殻変動のエネルギーの宝庫です。これを利用して電気を起こせれば気候変動にも対応できるはずではと考えてしまいます。

TaoChat@1098編集後記

昨夜は、元会社の同僚とほぼ一年ぶりの飲み会をやった。コロナ禍のなか、互いの健康を祝して乾杯した。居酒屋での飲みは話が弾み、2件はしごをして4時間半に及んだ。家飲みが続いたので、昨日はやや飲みすぎの感であった。

この一週間の出来事は、中学生の刺殺事件がショッキングだった。いじめの被害者が加害者になってしまったのがなんとも悲しかった。こういう事件が起こると異常性だけが取りざたされるが、いじめ被害者になれば誰もか起こしうる事件だと思ってよい。包丁やナイフが身近にあれば、対抗手段としてその柄に手を触れる可能性は誰にでもある。

メルマガでは荘子外物篇から言葉を選んだ。この事件と結びつける積もりは当初はなかったが、この事件に救いの道はなかったのかと考えるうちに、自然のなりゆきで結びついてしまった。外物はどうしようもないことというのが外物篇の始まりである。

学校においては、いじめはどうしようもないものと考えてよい。ささいなことからいじめが始まる。本人が不快に感じるあだ名もいじめにつながる。いじめはエスカレートする。いじめる相手は、どこまでいったら本人が怒るのかみたいので、いじめの頻度を上げる。会社でそういういじめの場面に遭遇した。飲み会の席だったが、いじめられた本人はいきなりいじめている人間の顔を殴った。殴られた方はあっけにとられ、それ以降いじめを止めた。

荘子の言葉は、外物というどうしようもないことにどう向き合うかを教えてくれる。

あきらめずにどう対処したら、やり過ごせるのかを懸命に考える。その訓練を若いうちにやらないと大人になってから、外物は次から次と現われる。毎度落ち込んでいたら身が持たない。そんな気持ちから今回のメルマガ原稿を書きました。

TaoChat@1097編集後記

先週は九州鹿児島と宮崎に旅に出ており、編集後記はお休みしました。

鹿児島は温泉が豊富で、指宿は塩からい湯で、霧島は硫黄泉で、宮崎青島はぬめっとしたアルカリ泉で、どれも素敵な温泉でした。旅行中、左目が白内障気味で気にかかったので、今日眼科に行きました。日曜日もやっている医者がいるのは本当にありがたいことです。検査の結果、手術することになり、病院の紹介状を書いてもらいました。

天気に恵まれ、桜島の景観を、鹿児島市内の城山側からと裏側の垂水側からと拝む事ができました。知覧では特攻平和記念館を見てきました。敗戦数ヶ月前に国に命を捧げた若い兵士の遺言を見て、胸が熱くなりました。もう少し早く原爆を落としてくれたら、無駄死にすることはなかったとあらぬことを考えてしまいました。

今回の言葉は、蕪村の句を取り上げました。以前のこの句を紹介した記憶があるので、覚えている方はお許し願います。秋の暮にはひと恋しさが募るもの。蕪村の時代も今も変わりません。ひとりとひとりを重ねているので、ますます訪問のありがたさが身に沁みます。NHKEテレの「こころの時代」で、小友聡神父がコヘレトの言葉を解説している番組を見て、テキストを買って読んでいます。その中に、「ひとりよりふたりのほうが幸せだ。」という言葉があります。その理由を、ひとりが倒れてももうひとりが起こしてくれるとあります。孤独を維持して生きのびるより、孤独同士がたまに会って、孤独に耐えている姿を互いに確かめ合うことも必要なんだと思いました。蕪村の句から、こんなことを考えるのはちょっと飛んでいるかもしれませんが、コレヘトの言葉に老子を感じるのは私だけではないと思います。