TaoChat@1218編集後記

老荘思想にまつわる言葉を毎週土曜日に、老子小話と題してメルマガを発行している。老子小話は、TaoChatとニックネームで表現している。もうかれこれ、23年以上続いている。毎週欠かさず、といってもお尻の手術で入院している期間は配信できなかった。お尻といっても大腸がんではなく、肛門の近い部位の手術である。若い頃から痔に悩まされ続けてきたが、それが化膿してどうにも我慢できなくなったので、手術することにした。幸いなことに再発はなく、何とか無事に過ごせている。この無事というのが最高の幸せだと身をもって感じている。今回のメルマガで取り上げたのも、老子の無事の言葉である。この1週間のニュースは、何といっても、東北大震災の13年目の追悼である。あの日のことは今でも忘れられない。震災が起きてから、自宅にたどり着いたのが10時近くだった。車通勤をしており、帰宅の車で道路が渋滞していたからである。あの地震が東京直下なら、日本は沈没していたに違いない。福島原発の電力は東京に送られていたのだが、原発事故で今なお苦しんでおられる方がいることを忘れてはならない。原発を首都近郊に作らない理由は、放射能汚染で首都が壊滅するのを防ぐためと言わざるを得ない。どんなに安全神話を唱えようと、腹の底ではそれが覆る可能性を信じている。行政のやり方は、誰を犠牲にするかを先ず決め、犠牲に対する埋め合わせを考える。マイナスの後のプラスで帳尻を合わせようとする。福島原発放射能汚染物質の処理は、福島県内で帳尻を合わせることになった。13年経っても、傷跡はなかなか癒えない。プライベートでは、ポール・オースターの「偶然の音楽」を読み終え、二葉亭四迷の「浮雲」を読み始めました。この「浮雲」は、メルマガTaoChat@1215で取り上げた論語の言葉からの連想です。論語における「浮雲」は、どうでもよいような代物ですが、二葉亭四迷にとっての「浮雲」は果たしてどんなものかを知るため、読み始めました。原文一致体で書かれたので、江戸弁丸出しの口調で書かれているので、まるで落語を聴くような気持ちになります。しかし、心情は今の人間でも共感できるので、違和感なく読み進んでいます。

今回の言葉は、老子よりいただきました。事が大きくなる前に、早めに手を打つというのが主題です。事が大きくなってしまうと、打つ手も大きくなり、それが功を奏する可能性も減ってくる。事が小さいうちに手を打てば、大げさな手も不必要になる。老子は、ささいなことが重要という。日常の何でもないことに重要さが隠されているという。日常茶飯事のなかにヒントが隠されている。その宝のヒントを見過ごすことが、ことを大きくすると警鐘を鳴らす。どんな病気にも自覚症状はある。自覚症状は身体の悲鳴といってよい。その悲鳴を聞き逃すと、事が大きくなり取り返しのつかないことになる。そんなことを感じさせる言葉でした。老子は反語的な表現を使いますが、そこには無事で無味な日常茶飯事こそがヒントの宝庫だといつも唱えています。