TaoChat@1165編集後記

今日は3.11東日本大震災から12年目の日である。天気は晴れて暖かく穏やかで、庭の木蓮も白い花を咲き始めている。あの日のことは今も覚えている。津波の怖さを映像でリアルタイムで味わった。目の前でひとが黒い飲まれていく。どうしても職場を離れられなかった人々。原発の怖さは、海外からの緊急避難指示を通して知る事ができた。東京にいる外国人は放射能被爆が危険なので、東京から退避するように海外から指示が発せられた。とうの日本人は何が起こったのかも知らされず、避難は後手に回った。原発は安全だといっていた学者はだんまりを決めた。あの日を境に価値観が一転するように思えた。一転したのは被災された方々であり、政府のほうは相変わらず原発依存のエネルギー策を続けている。自然のかすかな声は政治には届かないらしい。今回の言葉は、自然のかすかな声を聞こうとする老子の言葉を取り上げた。真実は多言を必要としない。いろんな前提条件が加わると、言葉は自然と多くなる。保険の約款を見れば明らかである。あまりに多すぎて読む気がしなくなる。それに対し、自然の言葉は短い。前提条件抜きで「人は必ず死ぬ」は成立する。しかもこの声は普段かすかであり、災害に直面すると途端に大きく鳴り響く。死の直前まで、誰も自分がまさか死ぬとは思わない。原発支持者は、放射能汚染でふるさとを追われるまで、原発の安全性を主張するだろう。原発の安全性は、いろんな前提条件をつけて解釈される。自然は、その前提条件を覆していく。自然が核反応を役立てているのは、太陽という巨大な核融合炉だけである。「太陽はある期間燃えている」 それだけである。その間、地球は生かされている。それだけである。太陽が核融合で得たエネルギーを人類は光として生存に役立ている。この声は普段かすかであり、太陽が衰え始めるとき、大きく鳴り響く。自然のかすかな声は真実を短い言葉で語りかける。それが耳に入る人は、今の自分に感謝する。