TaoChat@1166編集後記

今日は朝から雨が降っている。花粉症の身にとって、雨が降り積もった花粉を洗い流してくれると期待している。東京では桜が開花したニュースが飛び込んだが茅ケ崎の桜はまだである。この一週間のニュースは、WBCのTV観戦に明け暮れた。チェコのチームが意外と強かった印象である。選手や監督が、仕事を抱えての参戦でかなりの実力があるのに驚いた。特に、侍ジャパンの打線は、チェコの先発投手にかなりてこずった感がある。スピードが遅くても、コントロールがよければ、打てないのである。幸い全勝で予選通過できたのはよかった。最終戦のイタリア戦では、大谷選手の気迫が投球にも打撃にも感じられた。投球のたびに、大谷投手の気迫の声が聞こえた。それに打撃でもバントを仕掛けたのには驚いた。とにかく勝ちたいという思いが伝わってきた。

もうひとつの関心は、3月3日に大江健三郎氏が亡くなって、彼の作品を読んでみようと思った。一冊も読んでいなかったので、YOUTUBEの作品紹介を今朝も寝床で見ていた。亡くなっても、茅ケ崎の書店では作品が並べられることはなく、文化度の低さを物語る。本を読む人が減り、さらに文章がとっつきにくいと売れないので、並べないのかも知れない。東京の丸善ならきっと並べているに違いないが、ここはYOUTUBEで情報を集めて、何冊かは読んでみたい。実は何冊か買ってあるが手をつけていない。それから始めてもよいと考えている。

今回の言葉は、「易」から頂いた。「子曰く」で始まるパートなので、孔子が言ったとされているようだ。この言葉の前に、月と太陽の動き、四季の変化から、この言葉を見出したという前書きがある。従って孔子もまた、自然の声を聞き取って、この言葉にたどりついた。明るくなれば暗くなる。暑くなれば寒くなる。自然では、同じ状態がずっと続くことはない。先週の老子の言葉も同じことを言っている。負の状態に直面しても、くじけることなく充電期間だと思えばよい。いずれ、蓄えたエネルギーを放出するときが来る。まあそうなのだが、これは負け惜しみではない。これは自然の法則なのである。自然の場合は、地震で放出するエネルギーで人間は災害を被るので、いいことばなりではない。自然界では、エネルギーの蓄積と放出で、物事が進んでいく。人間にとって、死も生も、ともに前進のためのエネルギーの蓄積と放出と考えると、悲しみは喜びに変わり、喜びは悲しみに変わる。つまりは生死で一喜一憂するなということになる。これは荘子に出てくる死生観につながる。エネルギーの蓄積と放出のプロセスと考えると、生も死も意味をもってくる。自分の死も受け入れることができる。いただいたエネルギーを無駄なく燃焼しつくすのが生の意味だと思う。燃焼して得たあらたなエネルギーを後世の人間に残していくのが死の意味である。表現された意志は後世の人間にとってエネルギーとなる。日本の平和にとって何を意志として残すかが、高齢者の使命となるのは明らかであり、大事な問題である。