TaoChat@1057編集後記

昨日TaoChat@1057を配信し、一夜明けて編集後記を書いている。

昨日の天気は暖かく散歩日和で、編集後記を書くタイミングを逸してしまった。

昨晩は寝床で宮澤賢治の童話を読んで10:30には就寝したが、11時ごろ地震で目を覚ました。茅ケ崎でもかなり強い揺れを感じ、宮城福島あたりが震源であることを知る。

その後、3.11大震災の余震であると伝えられると、大自然の時計のスケールの大きさを思い知らされた。人間の時計では10年は長いが、大自然の時計では人間の10年も数秒後に過ぎない。宇宙誕生から今までを1年とすると、人類誕生は大晦日の午後11時52分という。つまり、人類は宇宙の時計の一瞬を生きていることをあらためて知らされるわけです。この世に慈悲の光を届けてくれる阿弥陀様の到来は宇宙の時計では次の瞬間に起こりえることになるのでしょう。人間のスケールを中心に考える思考のおかしさを自覚させる自然現象であります。

今回お届けする言葉は、旧約聖書の「コレヘトの言葉」から選びました。

砂漠の大自然から生まれた聖書と、四季に恵まれた中国の老荘思想とに関連を見出せる言葉です。砂漠を支配するのは太陽と風です。太陽は日照を起こし、風は砂嵐を起こす。四季を及ぼすのは太陽と水です。水の流れは雨と雪をもたらし、大地に生命の恵みを与え、太陽は生命の成長を促します。風の動きも水の動きも無常であり、ひとの力ではどうしようもないもの。聖書では風を追う事が空しさを表現する。老荘では水の動きに人間の生き方の手本を見る。砂漠に生きるものは太陽と風の厳しさから耐えることを教えられる。できるだけ身を軽くして、オアシスからオアシスへ無事に移動できることを第一に考える。欲を深くして、余計な食料や水を手にすることは命取りになる。

老荘の生まれた中国は農耕文化であり、水の恩恵と脅威をいやというほど知っている。

それを自分の生き方に反映させてこそ、こころを平安を得る事が出来る。

一方、農耕文化は収穫物を蓄積することを学ぶ。水の動き次第で来年の収穫は期待できない場合もあるからである。老荘の生きた春秋戦国時代は、更に隣国から征服される心配もある。冨を多く抱える国は格好の餌食になる。

ということで、余計な収穫物を蓄えること自体が大きなリスクになる。従って、聖書や老荘で同じようなことを言っていても、持っている意味合いは風土によって微妙に異なっている。そんな違いに思いをはせながら、「コレヘトの言葉」を味わってみた。