TaoChat@1006編集後記

この一週間は、世の中では新型肺炎のニュースで終始したが、個人的にはかみさんの母親に会いに尾張一宮に車で行った。

義母は私の母親と誕生日が一日違う90代の高齢であるが、元気に暮らしており、頭もすこぶる回る。川で拾ってきた石に墨で般若心経を清書したものを見せてくれた。

ごつごつした表面に細かな書体で書き込んでいて、なかなか味わい深い。

墓参りにも行き、義父、義姉、義理の姪の御霊にご挨拶してきました。

帰りに、金華山岐阜城大垣城まで足を伸ばし、碧南の醸造所でたまり醤油と白醤油を買い求めて、茅ケ崎まで一気に帰ってきた。

昨年末の九州横断ドライブ以来の、ロングドライブだった。

運転していて気づいたが、追い越し車線では、未だにあおり運転が横行している。

車間距離が2,3メートルまで接近して、100キロを超えるスピードであおっている。

いつ追突事故が起きても不思議ではない。

自分が事故の当事者にならないと、事故の怖さがわからない。

人間はかくも浅はかな生き物であることを実感した。

今回の言葉は、荘子から選んだ。

あおり運転する人は、少しでも早く目的地に行こうとするが、一体どのくらい早く着けるというのか? 距離にもよるが、おそらく一時間も違わないと思われる。

その一時間のために、多くのドライバーに迷惑と不快感を与え、しかも事故を起こせば、結局一日を無駄にする。

移動のときはゆっくりリラックスして運転し、目的地に着いたあとは、貯めたエネルギーを思う存分使う。

移動のときに精神をすり減らし、目的地ではぐったりする。

これでは何のためのドライブかわからない。

荘子の言葉は、エネルギーの使い方の作法である。

自然の悠久の時間に比べ、車で一時間早く着くことにどれくらい意味があるのだろうか。そんなことにエネルギーを使うより、着いたあとでじっくりと自然の変化のありようを味わうためにエネルギーを使ったほうがよい。

常に全力投球ではエネルギーが続かない。

本当に必要なときに使えるように、緩急を持たせる。

それが老荘流の生き方である。