梅雨が明けたのであろうか、今朝は日が照っている。
日照時間が少なく、農作物に影響が出始めていることを、スーパーの野菜の値上がりで感じている。今日から8月16日まで、地元の小中学校は夏休みである。
蝉の声を聞くと夏になったという実感が湧き、この歳になってもなぜかわくわくする。
自分が蝉になって地上に出て、束の間の生の謳歌を楽しむ様子を思い浮かべている。
自分が蝉なのか、蝉が自分なのか、区別がつかなくなる。
思い切り鳴いた後は、道路や木陰で仰向けになって、天を見つめながら死ぬ。
ショーン・ペン監督の"Into the Wild"の映画の青年のように。
蝉の死に方は、自分にとっては理想的な死である。
蝉は何故鳴くのかというと、自分の子孫を残すため、求愛行動をしている鳴き声です。
自分の命と引き換えに、次の命を生もうとしている。
人間社会の言葉でいうなら、次世代の子供たちに、今もっている全エネルギーを投入して死に果てるということです。これができる人間はそう多くはいません。
だから、蝉のなきがらは崇高な姿です。全エネルギーを投入して、天命を待つ姿です。
話を元に戻し、今回の言葉は、鈴木大拙さんの言葉を選びました。
蝉は蝉であって、蝉ではない。
蝉を対象としてみると、うるさく泣き叫ぶ昆虫です。
しかし、蝉の生き様、死に様を見ると、もはや蝉ではなくなる。
自然界で必死に生きようとする生き物の姿をみてとれる。
人間は確かに知能を身につけ、過去のさまざまな困難を乗り越えてきました。
しかし知能だけでは困難を乗り越えられなかった。
次世代の子供たちに、今もっている全エネルギーを投入し、明るい未来を残そうとする生命体としての祈りがあったから、困難を乗り越えられた。
蝉にその祈りを感じられたとき、蝉はもはや蝉でなくなる。
そんな思いにひたりながら、今回の言葉をメルマガに取り上げました。