TaoChat@1143編集後記

今日はスポーツの日である。確か前には体育の日と呼んでいたと思うが。予報では28℃くらいになるといっていたが、お昼近い現在は曇りで、そう暑くなるようには見えない。メルマガを発信した土曜日は、発信後に庭の草むしりと車を洗ったので、編集後記は後に延ばしてしまった。外を歩いていると草むらから虫の声が聞こえてくる。虫の声を聞くと秋になったと感じる。暑いときは蝉の声、涼しくなると虫の声である。日光の強さが弱まると秋の訪れを感じるが、聞こえてくる音により、キンモクセイの薫という匂いによっても秋を感じる。日本の四季の変化は、すべての感覚器官を通して感じることができる。これは日本の宝といってもよい。

この一週間は、ノーベル賞ウィークといってもよい。残念ながら日本人の受賞者は居なかった。最近集中的に読んでいる村上春樹さんの受賞もお預けとなった。最近読んだ、「色彩のない多崎つくると、彼の巡礼の年」もなかなかよかった。特に、フィンランドに暮らすクロ(えり)を訪れて、仲間から突然外された理由を聞かされ、仲間それぞれが抱える心の痛みを知り、痛みにより心はつながるという真実を知るところがよい。つくるは自分を無色の空っぽの器と考えていたが、空っぽである空間に居場所を見つける人々もいた。自己規定しないが故に、あらゆるものを受け入れる強さを感じさせるつくるでもありました。無色というのは、何色にも染まらない中立性を有する一方、自分の存在意義を見失いがちになるという危険性を有する。つくるくんには、いろんな人とつながり、いろんな色にも染まるというポジティブな生き方をしていって欲しいと思ってしまった。沙織との関係はどうなるのかというのが気掛かりになる。

今回の言葉は、徒然草より選んだ。きっかけは、円覚寺の横田老師がYOUTUBEでの講話で、徒然草167段の話を取り上げており、徒然草をひろげてみたことにある。今回選んだのは、今回選んだのは131段である。自分に欠けたものは無理に満たそうとしても結果は悪くなる一方であるということ。つくるくんの無色に無理に色をつけても無理な話である。空っぽの器に無理に何かを満たそうとしても結果は悪くなる。自然に流れるままに、何かが空間を満たしそして消えていく。その一瞬に器はある色に染まり、色は別の色に移ろっていく。礼にこだわらずにあるがままにまかせていく。そんな移ろいに身を任せるのが、自然な生き方だと教えてくれる。ここで、「巡礼の年」と徒然草がつながってくるようだ。