TaoChat@1101編集後記

今日は寒波が押し寄せて、一月並みの寒さとなる日の予報がでていた。

しかし、車のフロントガラスが凍ることなく(一昨日は早朝凍結していた)、寒さは殆ど感じない。スパコンで気象モデルを駆使する予報が外れることもあるのかと思った。自然の流れを人間が知るのは不可能と知りつつ、予報に頼ってしまうのは人間の悲しさか。この一週間の出来事は、米国で竜巻が発生し多数の死傷者が出てのがなんともいたましかった。日本では、昨日大阪北新地で無差別放火殺人事件が起こった。こんな事件は何回も耳にする。最近では京都アニメ放火殺人事件がそうで、関係者に恨みを抱いた犯人が可燃物を持参し放火するものである。これはどうしようもなく、雑居ビルでおきると逃げようがない。可燃物を持ち歩く人を事前に捕まえるのはこれまた難しい。被害に遇わない為には、恨みを持たないようにするしかない。事前に警察に通報しても、犯行に及ぶまで監視してくれるはずもない。とにかく放火は被害が拡大するので極刑で対応するしかない。

今回の言葉は「徒然草」から選びました。完璧なことは味わいがないという話です。

何から何までそろいすぎていると、逆に自分の想像性を刺激する余地がなくなり、面白みが薄れてくる。小説でも映画でも、最後の結末まで書かずに、結末は読者や見ているものに想像させる方が味わいが出る。サスペンスや推理小説もそのへんのテクニックを駆使する。欠けた所に価値を見出すのが老子の美学で、徒然草はその美学を学んでいるようにも見えます。兼好法師老子も、荘子と同じく、自然現象の中でいろんな気づきをしている。例えば荘子には、曲がった木であるが故に、切り倒されることなく長寿の木として生きながらえている話がある。メルマガでは、美の観点で柳宗悦氏の例を出しましたが、かのダビンチのモナリザの絵も、非対称の顔から独特の怪しさがかもし出されているようです。人間の脳の中に、自然界から学んだ不完全性の美学を埋め込まれているでは?と考えてしまう言葉でした。