曇りの朝を迎えた。今朝もJobimのボサノバを聞きながらブログを書いている。Jobimは、1927年にブラジルで生まれ、1994年にニューヨークで67歳の生涯を終えている。
数々のボサノバの名曲を書いているが、中でもChega de Saudade, Wave, Desafinadoが好きである。
この一週間の出来事は、終戦の日を迎え、天皇陛下の平和への祈りの言葉を聞いた。
靖国神社に戦没者の御霊を祀るのは、あらためて疑問が残る。どうしても宗教色が残る。コロナの方は全国の感染者が2万5千人に達し、全国的に底上げの傾向が続いている。家庭内感染が急増し、主婦が自宅で死亡したり、妊婦が子供を失う悲劇も起きている。医療体制の強化のため、この一年、政府は一体何をしてきたのか、目を疑う。公的病院でのコロナ病床が数%のレベルに留まっていることが、国が制御できる病院でコロナ病床を確保するという努力を怠っている証拠になっている。やるべき努力を怠り、自宅療養を押し付ける政府への支持が激減するのは当然といえる。
この一週間の読書は、山本七平氏の「聖書の常識」を読んでいます。旧約と新約の関係、ユダヤ教とキリスト教の関係など、聖書の言葉をベースに話を進めていて、大変説得力がある。キリスト教がなぜ世界宗教に発展したのか歴史的経緯が理解できます。
今回の言葉は、菜根譚から選びました。風と竹が表わすものは、禅語および老子に通じるものがあるようです。ひとは出来事に及んで、心を乱す。乱した心を引きずって一生を終えるひともいます。「聖書の常識」を読んでいて、アウシュビッツの記憶をユダヤ人は決して忘れないと書いてあった。それは神との契約のもと、正義をあくまでも通すとありました。ナチスの首謀者をアルゼンチンの地のはてまで追っていき、見つけ絞首刑という制裁を与えている。一世代が無理なら次の世代が義を果たす。罪を許すのは我々ではなく神である。しかし、ユダヤ人はそれを怒りでするわけではない。絶対なる神との契約のもと、冷静に行動している。だから、菜根譚の言葉とは矛盾しない。神のない、タオイストは道を信じるしかない。道が示す、風と竹の比喩は、自然現象から読み取れる言葉に注目した言葉である。道は決して擬人化して語れない。道と人間との間には言葉はない。そこが神と人間との関係と異なるところだと思った。道の示すことに何も文句は言えず、まして契約を結ぶこともない。従って、契約を結んだからといって、世の終末に救われるという希望もない。虚無主義といえばそうだが、道の前に謙虚になる姿勢は保てる。救いは、自然の流れの中で、安らぎを保てるという自信かもしれない。