元旦3が日は天気もよく、孫たちも年賀あいさつに来てくれて、よいお正月を迎えられた。
世の中は、年末から、ゴーン元会長の国外逃亡ニュースで湧いた。
スパイ大作戦並みの脱出だったが、日本の保釈犯の扱いがいかにお粗末だったが明らかになり、非常に情けなく感じた。
ゴーン氏の弁護団も、馬鹿にされたものだ。
おまえらじゃ当てにならないからさっさと逃げるからと言われたようなもの。
まあこれは続きがあるようだから、これくらいにして、メルマガは999号に達し、1000号まであと一息になった。
老子の言葉で、新年最初を始めることにしました。
第十一章は、30本のスポークが集まる車輪の中心には、車軸が通る空間があるというたとえで、無用の用を説明する。
ちょっとわかりにくいので、わかりやすい例をいろいろ挙げた。
有が生きるのは空っぽの無があるから。
一言でいえば、そんなことになる。
宇宙的に言えば、宇宙という無の空間があるから、星の生成と消滅というドラマが生まれるといえる。
その星のひとつに、運よく生命が生まれ、人類が育った。
そもそも、有と無というのは、言葉が生まれて出来た。
何々が有るというのは、何々を指す言葉が生まれて、成り立つ表現である。
何々が無いという表現も同じ。
言葉が生まれる前の世界は確かにあったわけで、どのような世界か説明できない。
老子のいう有と無は、言葉が生まれた後の世界を相手にする。
特に、善と悪、美と醜という、相対的な言葉は、悪と醜という対立する言葉があって、善と美が意味を持つ。
善が意味を持つのは、悪があるからである。
善の世界の外側に悪の世界があるというイメージを作るが、実際の世界は善悪は渾然一体である。
善を主張するアメリカは、平気で他国イランの軍人を他国イラクの空港で爆撃し暗殺している。アメリカの行為は、悪の限りを尽くし、他国の主権も人権も無視している。
こんなことが当たり前に実行され、日本政府は何も非難しない。
その理由が日米安保なら、それは欺瞞である。
老子の言葉は、極めて現実的な言葉である。
まやかしに目を奪われずに、本質を見ろといっているようである。