TaoChat@1131編集後記

昨日今日と雨が続き、過ごしやすい一日となりそうです。庭に植えたキュウリやトマトが毎回食膳に乗っている。この一週間の出来事は、安倍元首相の狙撃事件の真相が明らかになりつつある。前回、狙撃犯の動機が、旧統一教会への多額献金による一家の破滅への恨みだと述べましたが、その後、献金が一億円を上回ること、破滅は狙撃犯の兄の自殺を招いたこと、一家破産により進学をあきらめたこと、本人も自殺を考えたことなど、追い詰められた状況が見えてきました。旧統一教会の改称(2015年)にも安倍政権の関与があったこともわかってきました。政治家個人にも信教の自由はありますが、霊感商法を公然とやってきた宗教集団はカルト教団と呼ばれてもしかたなく、それに一国の首相が応援メッセージを送るのは、宣言効果に加担していると疑われても仕方がありません。首相の立場を利用しようとする輩は世にあふれています。そういう輩に同調しないことは首相として当然の心がけだと思いますが、安倍さんはどうもそれが特に甘かった。それが残念でした。

今回の言葉は、老子からお届けしました。安倍さんが亡くなって、マスコミでは、安倍さんの功績をたたえる番組が続いている。老子の立場からは、善と不善はコインの表と裏のようにつねに一体であるといいます。善を見て不善は手本と考え、不善を見て善は反省するという。今日の善は明日の不善。政治家の功績は、裏の闇とともに評価しなければならないといっているようです。佐藤栄作首相の沖縄返還の功績は、裏で核持込みの密約を伴っていた。田中角栄首相のロッキード事件は、アメリカべったりの政策から日本の独自性を追求し日中国交回復という功績をうらんだアメリカ政府のわなだった。前者は、国民をだました密約という不善が沖縄返還という善を呼んだ。後者は、日中国交回復という善が、アメリカの罠にはまるという不善を呼んだ。政治家に限らず、どんな人間でも善と不善を抱えている。それらが互いにどのように関係して、状況が移り変わっているのか、常にわれわれは考えなければいけないと老子は教えます。