末期がんで在宅ホスピスケアを受けてきた父親が先週末亡くなった。
がんセンターから自宅に戻って、およそひと月で息を引き取った。
そのひと月という貴重な時間を無駄にはしなかったと思える。
父親の生まれてから今までの歩みを聞き、残される者への願いを聞き、どのように生を終えたいかも聞く事ができた。
94歳という高齢ではあったが、最後まで生き抜いた感に溢れた最期だった。
このような幸せな死に方ができれば、人生最高だと思った。
編集後記は、葬儀の前日の忌引きの休みを借りて書いている。
今回の言葉は、生と死の言葉である。
父の死に臨み、墓のことを調べた。
墓は、遺灰が大地に帰るように、本来自然に壊れるような素材である素焼きの骨壷を用いるそうである。
つまり、墓は、遺灰の保存のためではなく、遺灰が大地に溶けこむようにしなければならない。何処で大地に戻ったかを示す標識が墓ということになる。
この本来の思想からずれて、遺骨の保管庫になってしまったのが、現在の墓である。
死者を帰人と呼ぶのは、自然に一番かなった呼び方である。
遺灰が大地に溶けこみ、大地に帰るからである。
大地は遺灰という栄養を受け、草木を育て、それが他の生き物の栄養となる。
人類が自然に分解しないプラスチックを作り、その蓄積が環境に大きな影響を与えている。遺骨も保管庫としての墓で保存する限り、大地に戻る事ができずに、遺骨の管理に手が負えなくなる。
今の墓じまいの問題は、遺灰の循環を妨げている所に原因があるようだ。
列子の言葉から、こんなことを考えるのは、タオイストの自分だけであろうか。