TaoChat@1028編集後記

まだ梅雨が明けずに、曇り日が続いている。

湿度は高くなり、蒸し暑さだけは感じるが、過ごしにくい梅雨ではない。

この一週間の話題は、GO TOキャンペーンの強行開始であろう。

出足を見ていると、若者の移動が中心で、国民の大半は様子見で不要不急の外出は控えているようである。まあ慌てて旅行する必要もなく、2週間後の感染状況を把握した上で、旅行スケジュールを決めればよい話である。

先週も書いたが、皆が同時に旅行するほど愚かなことはない。

それが渋滞を招き、混雑を招く。それをGO TOキャンペーンを打った政府は望んだことか? すべてをお膳立てした上で、行きたい人は行きたい時にマイペースでプランを組んでくださいと、政府は言うべきだった。それを行ってくださいといいつつ、何もお膳立てしていないというのが現状である。

星野社長が言うとおり、2年間のスパンで、観光業の国内需要を活性化していくことに道があるように思える。海外頼りのアプローチはコロナで全否定された。

国内観光のよさを国民が見つめなおすところに日本復興の道があるようだ。

今回の言葉は、蕪村の句を選んだ。

蕪村の梅雨はいつも耳の中で続いていたという句である。

うつほばしらというのが目の付け所である。

空洞のあいた柱。

空洞は老子で言う無。

無を流れる雨のしずくは老人の耳にはいつも聞こえる。

蕪村の句に出会って、わたしの耳の中の雨音についてあらためて考える機会を得ました。老人になる前から、感じていた雨音でした。

耳の中の残響といってよい。

それだけ雨音という自然に敏感になっていたともいえる。

道をこころざす人間として当然の道。

そのうちに雨が無くとも、雨音を聞く事ができるようになった。

これはもはや幻聴という病的な言葉というより、道に少しずつ溶けこんでいるといえる。