TaoChat@1068編集後記

5月連休が始まった。5月5日まで休みが続くようだ。

今日は朝から天気がいいので、運動がてら車でも洗おうと思う。

先日車の免許更新に行ってきた。あいにくゴールド免許ではないので、後日講習を受けなければならず、しかも更新の料金も高かった。更新期間も短いので、違反はしないほうがよい。この一週間の出来事は、飛鳥2のクルーズ船でコロナ感染者が出て、クルーズ取り消しになったのが印象に残った。出航直前にPCR検査して、見切り出航したところ、海上で感染が発覚して、ツアーの取り消しとなった。去年のクルーズ船の経験が全く生きていなかったのが悲しい。緊急事態宣言が出ている最中の出来事で、日本のコロナ対策をある意味象徴していると思った。一言でいうと、「大丈夫だあ~」と乗船した客も出航した会社も考えている。この言葉を言っていた、馬鹿殿様こと、志村ケンは亡くなってしまったが。この意識は、変異種が蔓延しつつある状況下で、オリンピックを強引に開催しようとする政府にもあるように思われる。ワクチン接種は気休めに過ぎないのに、それすらオリンピック開催に間に合わない。昨日プライムニュースを見て驚いたが、大量の感染者が出ているインドから渡航者の制限をかけていないことだった。まさに「大丈夫だあ~」の証しともいえる。どこで政府の歯車が狂ったのか? 最初から狂っていたといえる。PCR検査を行なわず感染を放置し、感染者が拡大すると中途半端な緊急事態宣言をかける。結局経済を優先し経済を失っている。政治家も、日本はお願いしかできないと開き直っている。国民は自分の命は自分で守るしかない。この結論は最初から変っていない。このブログを書いている途中、部屋が揺れだした。また宮城県沖で地震が発生したようだ。自然はコロナからの回復を持ってはくれない。

今回の言葉は論語からいただいた。野末陳平氏の著書「孔子老子」で見かけた言葉である。論語は学習の書である。師は身の回りどこにでもいる。三人寄れば、互いが互いの師になる。師と言うのはよいことだけを示さない。悪いことを示すのも師である。他人のことはよく見えるが、自分のことは見えない。師にされることを知って、わが身を引き締める。親は子供の師のように考えるが、反面教師の場合もある。子供が師になることを親は肝に銘じなければならない。他人の行動を浅ましいと思うとき、自分もそれをやっていないか自省する必要がある。

老荘にとって師は自然である。自然の摂理と人間のふるまいの違うところに目を見張る。自然界では、自分の死骸は他の生き物の生の糧になる。人間だけが灰にして墓に埋めようとする。生物学的に言えば、自分の遺伝子は子孫に受け継がれている。何故骨という物質にこだわるのか? 千の風になって、といういい歌がある。骨に魂が宿るわけではない。魂は風になって、いつでもわたしたちを見守っている。