TaoChat@1067編集後記

先週も編集後記を書く事ができなかった。

母親が4月17日早朝に亡くなり、メルマガ原稿を書き上げ配信はできたものの、すぐに遺体安置場所に向かったのが理由です。2年前に父親が亡くなり、この春は母親が旅立ってしまった。94歳という高齢でもありコロナ流行の関係でなかなか会えず、約1年前に言葉を交わしたのが最後でした。子供の眼から見て母親を眺めると、なかなか自己主張の強い母親でしたので、家庭に入らなかったら、ばりばり仕事をやっていただろうなと想像します。父親と同じく高齢になるまで大病せず元気にいてくれたのが、子供にとって大変ありがたいことだと感じています。

世の中ではコロナ感染が地方でも増え、肝腎のワクチン接種は遅々として進まず、五輪は大丈夫なのかと心配しますが、政府は強引に押し切る模様です。5月連休限定の緊急事態宣言を出しましたが、効果はさほど期待できないでしょう。国民としては、自分の身は自分で守るしかないということです。わたしは緊急事態宣言中も東京に仕事に出なければならないので、最大限の努力でしのぐしかありません。

今回の言葉は、「禅林句集」の禅語から選びました。ネットで調べると、結構有名な言葉らしく、いろいろなところで解説されています。月は落ちても天を離れずというのが有名らしいです。真夜中こうこうと照らしていた月が西の彼方に消えても、また天に昇っている。なあんだ、月のすみかは天なんだと気づく。しかし、この言葉は禅問答の答えでした。そもそも禅問答に答えはひとつに限らず無数にあります。ネットで調べてみても、あらゆるところに仏はいて、それに気づくチャンスは無限にあるという解説がある。老子にも、道は無言で語るとある。水も月も、人間が誕生する以前から同じ軌道を何回も巡っている。その巡りをながめて、仏を感じられるかが個人個人の眼にかかっている。Ashes to ashesという言葉が、教会の埋葬で使われます。人間の体も灰から作って、死ぬと灰に戻す。両親の火葬後の骨もashesに思えました。

禅語の水が元の海に戻るのと同じだと感じた次第です。

 

TaoChat@1065編集後記

新学期も始まって、こころ弾む新入生の姿を車内で見かけることが多くなった。

東京駅でも新入社員の集団を見かけることもある。

きっと配属前の研修の帰りなのかもしれない。東京ではコロナ何処吹く風といった様子である。ワクチン接種はまだまだ接種率が低迷しているが、政府は勢いで五輪を開催し、GOTOトラベルも復活する計画にある。リモートワークを拡充するなどデジタル化に向けた対策は尻すぼみになる心配も出てきた。のど元過ぎれば熱さを忘れるようなことにならなければよいのだが。

自分の仕事に関してはリモートが許されず、毎日7時から5時まで出社して、一年のブランクで抜けた仕事感覚を取り戻そうとしている。デジタル化に関しては、日本は世界の潮流から圧倒的に遅れている。今まで政府がデジタル化を軽視してきたつけを払わされているといった状況である。ワクチン接種の予約を電話で行なっていること事態が前近代的。電話がつながらずいらいらする国民の顔が見えている。ネットで予約して指定された会場に向かえば済むといったシステムがどうして構築できないのかが不思議でたまらない。いまだに電話が支配的なら、回線がふさがり予約すらできず、そのうちあきらめる人も続出する状況は目にみえる。本当にお粗末な国である。

今回の言葉は、今通勤途中で読んでいる鷲田清一さんの本から選んだ。この本は、鷲田さんの言葉を掲載した雑誌から集めた角川文庫本である。

自分も経験があるが、枕元で子供に本を読んでいて、眠っているのに何度も話をした記憶がある。そのときはわからなかったが、こどもにとって話の内容より自分のために時間を割いてくれる声そのものの心地よさを求めているようだ。

だから声が途切れると、その心地よさが中断され、またその続きを求める。

これって子供だけでなく、大人でも同じである。

飲み屋で愚痴を聞いてくれるママさんは、母親の役目をしてくれている。

愚痴をたれる客にとっては、愚痴に応答してくれるママさんの言葉は、内容よりも自分のために愚痴に耳を傾けているママさんの気遣いが嬉しいのである。

いくら商売とはいえ、愚痴ばかり聞かされていてはママさんも大変だが、客にとっては、<わたし>でいられる場所が飲み屋なのである。

鷲田さんは、介護施設でも同じ状況だと他のページで語る。

わけのわからないことをいうご老人にとっても、介護者に内容を理解してもらおうとは思っていない。自分の言葉に耳を傾けていただくだけで、<わたし>でいられる心地よさを味わいたいだけである。断片的な文章だが、いろんな気づきを与えてくれる本であることに間違いはないようだ。

TaoChat@1064編集後記

先週はTaoChat@1063編集後記を書きそびれてしまいました。

仕事が忙しく、土曜日もその準備に追われたためというのがその理由と思われます。

今日は忘れずにすぐに書こうと思った次第です。

今日は朝からいい天気です。

どの車のボディを見ても、うちの車と同じくほこりと雨のしずくのあとで汚れています。ほこりと思ったのが実は中国から飛ばされてきた黄砂のようです。

これを書いたら洗車することにします。

今週の出来事は、とにかく有名人でなくなった方が多かった。特に田中邦衛さんは若大将シリーズ映画の青大将役、北の国からの五郎役でなじみが深かったので驚きました。今日のフジTVでやる「北の国から」初恋篇は、録画予約しました。名演技だけでなく、田中邦衛さんの人柄にほれ込んでいました。素朴で照れ屋で実直の役者の演技をビデオでまた楽しもうと思います。

昨日、林和清氏の「日本の涙の名歌100選」(新潮文庫)を読み終り、その一つをお届けしたかったのです。和泉式部といえば、内容の知らずに和泉式部日記ですが、本を読んで恋多き女性であることを知りました。平安時代の貴族社会の女性の生き方は、現代の女性以上に自由奔放であることが和歌を見てわかりました。以前お届けした法然の和歌に通じるものがありますが、暗き道にはまった女性の希望を捨てない態度にたくましさすら感じました。光あふれる都会では月あかりのありがたさはわかりませんが、光のない山里に行けば、月明かりは進むべき道を照らしてくれます。月明かりがどんなにありがたいか身にしみて実感できます。わずかな光でも、それを頼りに私は暗き道を歩いていきますという意志が現われている歌に思えます。

蕪村の句に、「菜の花や月は東に日は西に」という句があります。

菜の花の黄色の花は、日光の下よりも月明かりの下で、ひときわ目立つようです。

希望を捨てない強い意志があれば、闇が訪れても、月明かりから輝く力を得るようです。和泉式部に菜の花の黄色の花を重ね合わせてみたくなりました。

 

TaoChat@1062編集後記

朝起きたときには曇っていた空は今も曇っているが、明るいところを見るとそのうち腫れるかもしれない。家内を駅まで車で送っていったとき、国道が車で混雑していた。

緊急事態宣言疲れがしてきたのか、3学期が終わったためか、行楽地の人出は一気に増しそうな感じである。菅首相の緊急事態宣言解除の会見でも、緊急事態宣言は「労多くして、益はそんなにない」と語っていた。最初からわかっていたことだが、中途半端な緊急事態宣言は「労多くして、益はそんなにない」もので、それを実際やってみてそういう結論を得たんだなと感じた。いつもいっている、専門家の意見を参考にしながらというのも、形式的な前置きに過ぎなかった。菅首相内閣官房長官のままの首相ということに尽きている感がある。

一年ぶりに仕事を再開して毎日東京駅まで出かけるが、駅の人出も一気に増えた感じである。皆がマスクをしているお陰で、変異種の感染も抑えられているのかもしれない。花粉症で車内で咳き込むこともあるが、以前ほど白い目で見られないのもありがたいことである。コロナに過剰反応する人が減ってきているのはいいことだ。ワクチン接種しても、マスクや手洗いをしていれば、感染は抑えられるという自信を皆が持ってきている証しだと思う。

今回の言葉は、諸橋さんの「荘子物語」(講談社学術文庫)で見つけた。

人間というのは欲があるから心が惑い、理性的な判断ができなくなる。

荘子は賭け事からこれに切り込む。かけ金の多少で心への影響が変る。

カジノで大金を賭けて大負けするのは、大金に心乱れて理性的な判断ができない証しである。賭けマージャンで職を追われた検事長がいたが、少額のときは上手く打てていたのが、大金が絡むと大きな手をつい狙いがちで逆に振り込むケースが多くなる。

達生篇にこの話が書かれているのがまた面白い。達生とは、人生を全うするための言葉である。一言で言えば、無為の虚心坦懐を保つことである。これがなかなかできない。

だから荘子も外物に目を奪われるなという。

季節柄、4月は外物が次々と目の前に現われる時期でもある。

外物に飲み込まれないように虚心で事に当たれというのが荘子のアドバイスのようである。

最後に最近、寝床で野末陳平さんの「孔子老子」(青年新書)を読んでいる。陳平さんといえば、かつては黒メガネに筮竹をもって怪しげな風貌でデビューしたが、早稲田で中国哲学を学んでおり、老荘の素養もある方である。しゃべり口調が面白く、深夜放送では腹を抱えて笑ったという記憶がある。国会議員にもなられたが、なる前の彼の破天荒がなつかしい。1968年に「荘子入門」も出されているが今は手に入らない。ということで、10年ほど前に出版された「孔子老子」を読んでいるが、語り口調は当時の破天荒を少し理性化しているところが陳平さんの魅力の一つである。

TaoChat@1061編集後記

今日は雨模様であけたが、今は空が異様に明るくなり、もうすぐ晴れるよと語りかけているようである。雨は草花に立って潤いだから、雨の一日もまたよしである。

この一週間は、やはり大震災10周年である。復興はこの貴重な経験を活かしてどのように行なったが重要になる。福島原発でふるさとを追われた人の気持ちを考えるといたたまれない。家族を津波でさらわれ、まだご遺体を見つけられていない方々の気持ちを考えると、こころを強く持ってとささやくしかない。

生き残った我々は、未来をつなぐ方に少しでも役立つように今を生きるしかない。

大震災を契機に日本がどう変ったかを思いなおして、今回の言葉に至った。

明治以来、中央集権国家を立ち上げ、都市集中型社会システムを日本は構築した。

政治の中心は東京に集中し、東京から地方に資産を配分する。お上が上から目線で何事も決めていく。都市には人口が集中し、仕事も機会もそこに集中する。地方からは、食料品、水、電気が都市に集中する。それゆえ、地方は人口が減り過疎化が進む。都市の地価や物価は高騰し、所帯を持ちづらくなり独身者が増え、出生率が低下し、高齢化社会が到来する。それとともに年金問題も浮上する。地方をドライブすると気づくことだが、どんな田舎でも道路は舗装されていることである。

なぜ地方で生活する人口が減るのか? それは地方にいても、都会のワーカーと同じように仕事ができる環境がないからである。デジタル化に出遅れたために、ネットを介し、会議をしデジタル文書やコンテンツをやり取りし、仕事を完了する事ができないからである。行政手続きもハンコや紙文書をやりとりし、とにかく都市に出向かなければ、仕事が始められない。高齢者はデジタル化についていけないとうのは言い訳である。高齢者に優しいデジタル機器を開発するだけで、新たな商品が生まれ、それを貸与するだけの話である。

とにかく日本の歴代内閣が、モノの生産販売による経済成長しか考えてこなかったことによる。都市集中の弊害に気づいていないか、軽視した結果がこのような状況を招いたようだ。高層ビルを建てる事が経済成長と考えている。

豊かな生活とは高層ビルにあるのではなく、基本的に自分の家で仕事ができることにある。長い通勤時間と満員電車の毎日が仕事と勘違いしてきた。

 

上で述べた事が老子の言葉とどうつながるのか?

つまり3.11大震災とか、新型コロナとかは、日本の都市集中型社会システムにもたらした災害だが、このような都市集中指向の政策のゆがみを浮き彫りにしてくれた自然の恩恵ともいえる。その政策のゆがみを是正せずに相変わらす、既存の道を歩いてきた10年だったといえる。昨年のコロナ騒ぎで、諸外国から見ても、紙で給付金を申請したりしている日本の姿はデジタル後進国そのものだった。

田舎の道路だけはちゃんと整備されていても、通信ネットという情報の流れの道はお粗末で、そこを流れる情報を処理するアプリの性能もお粗末である。その基本には、都市集中指向で、政治も経済も教育も医療も回ってきた現実がある。地方で東京と同じ生活の質が確保できれば、美味しい野菜と美味しい魚が食べられる地方がいいに決まっている。

老子のいう、ほんとうに真っ直ぐなものは曲がって見えるとは、持続可能な社会への道は、3.11大震災とか、新型コロナとかの自然の恩恵によって浮き彫りにされた都市集中指向という歪みにいかに真摯に向き合って歪みを是正していく、曲折の道に他ならないということだと思う。親鸞聖人の道も、流罪という曲折なしに成し遂げられなかったと思う。曲折なしに、まっすぐに進める道などない。大切なのは、曲折から何を学べるかということに尽きる。

 

TaoChat@1060編集後記

今日は朝から曇り空だが、気温のほうは4月並みになるそうである。昨夜は雨が降り、物干し竿には透き通った水滴がぶら下がっている。

まもなく3.11大震災から10年が経とうとしている。福島の原発ではいまだに放射能汚染水の処理が進んでいない。津波で流された町の復興もまだ道半ばである。新型コロナの影響で、観光客もなかなか戻らない状況にある。とにかく復興の道は苦戦続きだが、死者の魂はわれわれを応援しているに違いないので、一歩一歩前進する以外に道はないと考える。

この一週間は、接待を受けた内閣広報官が辞職した後に、東北新社以外にもNTTからも接待を受けていた事実が明らかになり、役人の接待漬けが公然に行なわれていたことがわかる。役人には厳しいはずの菅首相も、身の回りは温室状態であった。

私的は、この一週間は、毎日朝8時から午後5時までほぼぶっ通しで働いた。これも一年の失職のブランクのお陰と感じている。多少疲れたが、仕事に飢えていた状況から、現在の職場環境に慣れようと、とにかく周りの人に聞きまくった一週間だった。そのかいあって、少しずつ軌道に乗り始めているという実感がでてきた。

今回の言葉は、大震災の鎮魂の歌を、林和清氏の著書「日本の涙の名歌100選」(新潮文庫)に求め、見出した法然の歌である。月といえば、今朝寝床で聞いた、円覚寺横田老師の第59回管長日記で、月は地球の1/4の大きさで月のお陰で地球の地軸が傾き、それが地球に四季をもたらすということだった。法然の歌では、月影は仏の慈悲の光にたとえられている。暗い闇に輝く月の光は、昔から今までこころの支えと考えられたのだろう。月の光は皆を照らすが、その光をありがたく思えるか否かで、生きる姿勢が変ってくる。月は常に満月ではなく、満ち欠けする。ときには新月となって光を失う。

月の光は無常であることを知らされる。こころの支えがどんなに僅かになろうとも、それをありがたく思う気持ちが大事になる。欠けた光はまたもとに回帰することも大自然は教えてくれる。3.11大震災からの復興はあきらめずに時間をかけて着実に前進するしかないと、月影は教えてくれる。月影の慈悲の光を信ずる、澄み切ったこころが復興を支えると法然の歌は語っているようである。

 

TaoChat@1059編集後記

2月もあっというまに過ぎた。

今日は朝から寒い風が吹いている。

この一週間は暖かい日が何日か続いたので、庭の木蓮の白い花がいくつか開いた。

自然の移り変わりを見ていると、心がなごむ。

世の中では、菅首相の息子と総務省官僚の会食の話題で持ちきりだった。飲み会は断った事がないと豪語する内閣広報官もいるが、自腹で会食しなかったのは公務員の倫理規定違反に相違ない。会食にさそった東北新社幹部は辞職しているのに、会食した公務員は給与の一割カットでは、懲罰の釣り合いが悪すぎる。お役人は接待を受けるのが当然と官庁では考えられているらしい。コロナ禍で国民が苦しんでいるのに、菅内閣周りでいまだにこんなことが世の中で取りざたされているのが、情けなくてしようがない。

接待を受けた官僚は懲戒免職くらいの厳しい処分がないと、官僚の目は覚めないようである。

今回の言葉は蕪村の句を選んだ。春になって春一番が吹き、風の句を選ぼうと句集を探してみた。選んだ句に風の文字はない。しかし、風の存在が暗に含まれる句のほうが味わい深いと考えた。この句は、これまでたびたびTaoChatメルマガに登場していると思う。この句との最初の出会いは、森本哲郎氏の蕪村の紹介本だったと思う。森本氏の思想は大好きで、著書を何冊か買い求めた。哲学科出身の新聞記者だったが、蕪村への造詣が深く、「詩人与謝蕪村の世界」「月は東に」の本を書かれている。哲学的視点で蕪村の句を考察されているところが氏の面白さであり、自分の句の味わい方も、氏に学ぶところが大きい。氏は7年前に他界されているが氏の教えはこころの中に残っている。

いかのぼりの句は静的であり動的である。静的な部分は、幼い自分の記憶をいかのぼりの定点に見出しているところである。動的な部分は、いかのぼりは絶えず流れる風により支えられているところである。風は明示されないが風は句に絶えず流れていて、いかのぼりの定点保持に寄与している。いかのぼりを記憶とするなら、流れる風は時間の流れである。時間は流れても記憶は流れないで、流れに浮いている。

 

たこには思い出の絵が描かれている。遠くから眺めているので、正確な映像はつかめない。暗い思い出は美化され、ほろ苦さのなかに心地よさを見出す。そんな情景を蕪村の句に思い描く。