今日は穏やかな天気である。
家の周りでは、新築の家の最終工程にかかっているものがあれば、空き家の解体工事が始まったところもある。
生まれそうな家と死につつある家が隣り合わせになっている。
生があれば、隣で死を迎えつつある。
これは家屋の話だが、人間の世界でも同じ事が日々進んでいる。
無のあとに何が残るかといえば、そこに住んでいた人々の交流の思い出である。
反対に、存命の人であってもそこに交流がなければ、思い出は生まれず、無のあとに無が残る。
今回の言葉は荘子の斉物論から選んだ。
斉物論は、万物斉同の思想からなる。
万物斉同は、自然界では万物は皆同じく作られていると考える思想である。
虫けらもアメーバも、皆他の生き物の役に立ちながら、一所懸命生きている。
そこに上等も下等もない。
聖書では、神は人間を特別扱いしいろいろな知恵を授けるが、荘子はその知恵が人間の生き方を邪魔すると考えた。
自然科学は、荘子の教えを科学的データで裏づけしているというのが現状である。
宇宙の起源をビッグバンに置くが、その前の世界はまだわからない。
今見えている世界ではない世界が存在していたと考えると、無は人間の創造物であることがわかる。
自然科学は、人間の無知を有知に変えていく道具である。
荘子の言葉にも、無いということは始めから無いという。
そもそも、有るとか無いとかということが、わかっていないからという。
リスクがあるという。リスクのない世界なんてこの世にないと自然界は教える。
昨日子を産んだ母親のシマウマがライオンの餌食になる。
母親を殺された子のシマウマは、仲間の母親のシマウマが育てる。
母親の乳が飲めないといって死んでしまう子シマウマはいない。
リスクは人間が考える観念である。
リスクの有無は始めから存在しない。
荘子を読むと、人間がいかにちっぽけな世界に生きていることがわかる。
自然科学により、いかに大きな世界に生きていることを知るのは、荘子の教えを学ぶ別の方法になる。