TaoChat@990編集後記

今日は穏やかな天気である。

家の周りでは、新築の家の最終工程にかかっているものがあれば、空き家の解体工事が始まったところもある。

生まれそうな家と死につつある家が隣り合わせになっている。

生があれば、隣で死を迎えつつある。

これは家屋の話だが、人間の世界でも同じ事が日々進んでいる。

無のあとに何が残るかといえば、そこに住んでいた人々の交流の思い出である。

反対に、存命の人であってもそこに交流がなければ、思い出は生まれず、無のあとに無が残る。

今回の言葉は荘子の斉物論から選んだ。

斉物論は、万物斉同の思想からなる。

万物斉同は、自然界では万物は皆同じく作られていると考える思想である。

虫けらもアメーバも、皆他の生き物の役に立ちながら、一所懸命生きている。

そこに上等も下等もない。

聖書では、神は人間を特別扱いしいろいろな知恵を授けるが、荘子はその知恵が人間の生き方を邪魔すると考えた。

自然科学は、荘子の教えを科学的データで裏づけしているというのが現状である。

宇宙の起源をビッグバンに置くが、その前の世界はまだわからない。

今見えている世界ではない世界が存在していたと考えると、無は人間の創造物であることがわかる。

自然科学は、人間の無知を有知に変えていく道具である。

荘子の言葉にも、無いということは始めから無いという。

そもそも、有るとか無いとかということが、わかっていないからという。

リスクがあるという。リスクのない世界なんてこの世にないと自然界は教える。

昨日子を産んだ母親のシマウマがライオンの餌食になる。

母親を殺された子のシマウマは、仲間の母親のシマウマが育てる。

母親の乳が飲めないといって死んでしまう子シマウマはいない。

リスクは人間が考える観念である。

リスクの有無は始めから存在しない。

荘子を読むと、人間がいかにちっぽけな世界に生きていることがわかる。

自然科学により、いかに大きな世界に生きていることを知るのは、荘子の教えを学ぶ別の方法になる。

湯川秀樹先生が荘子に心酔したのはうなづける。