TaoChat@1058編集後記

今日はいい天気だが風が強い。ベランダにあるビニール温室が風にあおられて、中の鉢がみな横倒しになっている。風が強い日が続いていて、その中を散歩に出かけると、大量の花粉を浴びるらしい。最近クシャミや鼻水が出るのは、花粉のせいのようだ。

今年は、花粉症も大分軽いようだと思っていたら、2月半ばから徐々に出ている。

この一週間の出来事は、公では森元首相オリンピック組織委員会会長を辞めたあとの、新会長として橋本聖子氏が就任されたこととコロナワクチンの接種が始まったことである。私的には、3月からの就職先が決まったことである。仕事の内容は、去年3月で辞めた仕事とほぼ変らない。一年のブランクがあるので、働き始めは離陸できるように精力を込めなければならないと覚悟している。

この一年はコロナとの一年ともいえるが、仕事をしているときには気づかなかったことに気づかせてくれた一年だった。学んだのは仏教の教えだった。自粛の影響でお寺さんの法話会がYOUTUBEで聞けるようになり、法話を聞いて、仏教の教えに触れる機会を得た。これは絶好の機会だった。まさに縁に触れた。円覚寺の横田老師の法話や、佐々木閑氏の原始仏教の講義や、菊谷隆太氏の解説を継続して聞く機会を得た。まだまだ煩悩の固まりような生き方であるが、煩悩が苦を招く有様を自覚することが出発点だと感じている。

今回の言葉は、舌詩という漢詩をネットで見つけたので、それを紹介した。

口は禍の元より、口は禍の門というのが、中国思想的であり、仏教的でもある。

門というのは、出てくる所である。老子第一章にも、「玄のまた玄は衆妙の門なり」という。玄という深淵からもろもろの不可思議な働きが出てくるという。

言葉を口から吐けば禍が生じるというのも、哲学的であり仏教的である。

自分の思いは言葉によって歪められる。歪むのはまず自分の吐く言葉による。それは思いと言葉のずれから生じる。次にその言葉を受け取る相手によって歪められる。

それは、相手の認識力の違いによって起こる。同じリンゴといっても、自分は赤いリンゴを思い浮かべ、相手はリンゴから青いリンゴを思い浮かべることもあるからである。

どうでもよい違いなら禍は生じないが、差別とか偏見に関わる言葉の場合、無視できなくなる。無視することは認めたことを意味するからである。

言った本人が刀を振るったという自覚をしないと、今後も何度でも禍が生じる。

この詩を作った作者は、口の禍で命を落とした人間を何人も見てきたに違いない。

王様の刀で首を斬られる前に、自分の舌という刀ですでに自分を斬っていた。

言葉というのは本当に選んで言わないと、とんでもない禍を引き起こす。

実例は次から次と湧いてくる。