TaoChat@1049編集後記

今朝は遠くに青空が見えているものの、頭上の雲は厚い。昨日ほど寒くはない。

今年の冬至はいつなのか調べたら、12月21日月曜日であった。

この日を境に夜が次第に短くなる。つまり、春に向けて太陽が次第に高度を上げることになる。こういっためりはりの効いた四季があるだけでもありがたい。

この一週間でコロナ感染者も増し、全国での緊張感が増したようだが、ワクチン接種までは自己防衛するしかない。プライベートでは昨日ころんで手首をねじった。

痛みの中でキーボードを打っている。歳をとるとよく転ぶ。俊敏性とバランス感覚の欠如だと思う。けがの功名は、手が思い通りの動いていたことがありがたく思うことである。手が動かなくなることで、手のありがたさが身にしみる。足が動かなくなることで、足のありがたさを知る。普段気が付かなかったことに気が付かせるのが、けがの功名である。

今回お届けした言葉は、ダンマパドからである。中村元先生の「ブッダ伝」を現在読んでおり、その中に出てくる言葉である。

自分ですら自分でない。何のことなの?と始めは思った。

よく読むと、思い通りにならないというのがその意味だった。

怪我をすると、手足が思い通りに動かなくなる。しかし釈迦は、怪我をしなくても思い通りにいかない。最たるものは死である。思い通りには死ねない。

しかし、常時人間は体も心も変化していく。よく大昔に、こんなダルマ(真理)に気づいたものだと感心した。そういえば、怪我をしても自然に治っていくのは、体が日々変化していくからである。そんな現象から悟りに至ったのかもしれない。

なんでもかんでも自分のものだと考えるのは、陥りやすい罠である。

それを失ってみて、自分のものでないことに気づく。怪我をして手足のありがたさに気づくのと同じである。ブッダの教えで感動したのは、自分を大事にせよという教えである。自分を大事にすることは他人を大事にすることだともいう。

自分というものがどういう存在か気づくことが大事なのであろう。

思うようにならないものが、どういうものに支えられて生きているのかを悟ることなのだろう。わかるということは身をもってわかるということである。

そういった意味で、怪我することは大いなる意味を教えてくれた。