信仰の意味

人生の絶望から救ってくれるのは信仰だといいますが、これはある意味であたっていると思います。

私の母親は、幼い息子を病で亡くしましたが、病の前はクリスチャンであったのが、病を治すのをお願いするため創価学会に入信し、亡くなった後は、クリスチャンに戻りました。

苦しいときの神頼みといいますが、こんなに都合のよい信仰って一体なんだという疑問を常々感じていました。

この度クリスチャンの父親が天に召されましたが、この父も教会の墓地に入ると思いきや、分骨を遺言して、浄土真宗の先祖の墓にも入る遺志を示しました。

大部分の遺骨が教会の墓地に入るかと思いきや、浄土真宗の墓に入り、分骨のほうが、教会の墓地でした。

父親も母親もクリスチャンですが、やっていることは極めて日本的な、神様は何でもよいという結論です。

無信仰の私は、信仰の意味を考えさせてくれた両親に感謝しています。

私には兄弟がいて、その兄弟もクリスチャンですが、汝の隣人を愛せよという教えを守るどころか、肉親の私を排除する始末です。

信仰が家族愛を育むどころか、信仰仲間が結束して、家族崩壊させる担い手になっているような始末です。

そんな経験から、信仰の意味に関する、自分なりのおぼろげな考えがまとまってきました。

1)神様は何でもよい。大事なのは、その教えが身につき、実践されているかどうかである。

2)クリスチャンでいうなら、いくら教会に通っていても、その教えを実践できていないクリスチャンはえせクリスチャンである。

3)どんな神様でも、信仰の基本は、無償の愛である。神様の慈愛を信じるから、その愛を隣人にも分け与えることができる。愛によって、こころの安寧が得られる。

4)死との関係でいえば、こころの安寧のもとで死ねる事が、信仰の意味と思います。

こころの安寧は、生涯にわたり、神様の御心に従い、その教えを実践できたという満足感から得られると思います。

5)神様を自然の道と考えるのが、老荘です。老荘における、無償の愛とは何でしょうか。 大自然により万物が平等に生かされているという認識のもと、個々の生き物が互いに助け合い、自然の恩恵を平等に共有することではないかと考えます。

こんな考えに導いてくれた家族と老荘思想に感謝します。

あとは、えせ老荘信者にならないように、教えをどれだけ実践するかです。