TaoChat@1155編集後記

晦日に、TaoChatのメルマガを発信するのは何年ぶりだろうか。今年最後の締めとしては絶好の機会と思える。それほど寒くなく、とはいえセラミック・ヒーターにあたりながらこれを書いている。一年を振り返ると、プライベートでは2月に入院して、両眼の白内障手術を行ない、45年ぶりにコンタクトレンズから解放された。視界がぱっと明るくなり、しかも視力も裸眼で日常生活を行なえるレベルまで回復したので、感動は大きかった。施術していただいた先生への感謝も一生(あと何年生きるかわからないが)忘れない。この話には続きがあって、3ヶ月ほど前から右眼にくもりが入り、よく見えないことに気がついた。左眼だとはっきり見えるテレビの映像が、右眼だとややぼけて見える。さらに読書していても、左眼だけで読んでいるようになった。そこで先週の日曜に眼科に行って検査を受けたら、両眼とも後発性白内障と診断され、手術を受けるための診断書をもらった。翌日病院にいって見てもらったら、即日レーザー手術を行なうと言われた。びっくりしたのは、診察室横に、手術用の機械があって、ものの10分くらいで両眼の手術が完了した。白内障手術は水晶体を削る大がかりなものだったが、今回は、通常の部屋で麻酔用の目薬をさされレンズを眼にはめられレーザ照射をぱしぱしと受けるだけで、術後の歩いて帰らされた。視力が戻るか不安だったが、翌日明るい視界が戻った。今年の漢字は、私的には「眼」を選びたい。視界が変わることで人生観まで変わることを体感した。これは生来視力のよい人間にはわからないと思う。視力が悪い人間にとって、見えないことは当たり前であり、見えている範囲内で物事を理解しようとする。遠くにいる相手の顔はよく見えないので、表情から心を読むことはできない。言葉により、あるいは聴力により、心を読むことに気を使う。視力のよい人は視力に頼ろうとするが、視力の悪い人は視力に頼らず、総合的な感覚に頼ることになる。それが術後は、世界が明快になるので、感謝の気持ちが強くなる。自分ではどうにもならなかった視力をある程度回復していただいた眼科の先生、自分の体に対しても感謝の気持ちが湧く。床のごみがよく見えるようになったので、掃除の回数も増えたようだ。

今回の言葉は老子よりいただいた。強大なる者は下に居る。柔弱なる者は上に居る。人間界ではこの真実を忘れがちである。アメリカも、中国も、ロシアもみな自分を強大と思い込み、好き勝手に振舞う。日本では、政治家や官僚や宗教家や企業トップはみな自分を強大と思い込み、好き勝手に振舞う。自分に力があると思うことで、思い上がる。勘違いである。思い上がりは没落の出発点である。柔弱なる民衆から力を託されたに過ぎない。何のために? 民衆の平安のために。国にも社会にも、自分の体にもいろいろなストレスがかかる。柔軟性はそのストレスに打ち克つ力を与えてくれる。思い上がりは柔軟性の敵である。強大を誇る者は、柔軟性を失い、おのれの力を過信する。人類は強大なものに従うという愚かにいつまで続けるのか? ウクライナの戦いは、その流れに対抗する流れを生み出しているようだ。

TaoChat@1154編集後記

全国的に寒さが厳しくなった一週間だったが、今日は天気もよく風もなく、穏やかな一日である。街に出てみると、クリスマスの前日なのか、フライドチキンやケーキを売る店に客が列を作っているのを見かける。若い頃はクリスマスになると浮き浮きしていたが、歳をとってくると、どうでもよくなる。ウクライナもロシアにクリスマス休戦を持ち掛けたが、ロシアにはそれに応じる余裕はないようだ。はやく無謀な侵略を止めれば、ロシア国民も暖かな気持ちでクリスマスを祝えるのに。ロシア国民はいつまでプーチンの狂気に付き合うつもりであろう。この一週間の出来事は、地元茅ケ崎の殺傷事件は、容疑者の自首で全貌が見えてきた。当初犯行の動機が全くわからず、無差別殺傷の恐怖におびえていた。自供によると、容疑者は被害者が所有する住居の住人で、家賃の滞納のため、被害者から住居の退去を命じられたのを恨みに犯行に及んだようです。落語には、家賃滞納した長屋の住人の話があるが、住処を追い出されるとなると大家に慈悲をお願いするのは人情になる。現代は大家さんは不動産業を営んでいるので、契約書に基づき立ち退きを請求し、裁判所に裁定を求める。落語の大家さんのようなわけにはいかず、怨恨の標的になる場合もある。この事件を見ていて、どんなささいな事業も怨恨を残すと悲劇を生むことを教えてくれます。怨恨を無くすには、ひとの気持ちを大事にすることしかない。

メルマガでお届けした、今回の言葉は「菜根譚」から選びました。この言葉は、ある年齢に達しないと理解できないかもしれません。今ある自分を振り返り、自分の生い立ちを鑑み、祖先の恩恵を肌で感じることが必要です。祖先は、自分の親であり、その親の親であり、もっとたどれば、日本の歴史を作ってきた祖先でもあるわけです。こういう私もいずれ死に祖先となり、その子孫の幸福は、われわれの世代が残すものの恩恵あるいは害悪の影響を受けて達成されていく。今われわれが選択すべきことは、今の生活さえよければよいという選択ではなく、将来の子孫が暮らしやすい日本に導く選択でなければいけないということです。地球環境を考えると、化石燃料に頼らないクリーンエネルギーに重きを置いたエネルギー政策をとらねばなりません。ロシアによるウクライナ侵略で、エネルギーコストが高騰し、日本政府は原発回帰の方向転換をとろうとしています。福島の原発事故で放射能の怖さを身に沁みたわけですが、老朽化した原発の運転期間延長や新規原発増設などの方針に方向転換するという暴挙を年末の慌しい時期にどさくさまぎれに進めようとします。岸田内閣は、なぜ大事な課題を国民のコンセンサスを得ずに強引に切り抜けようとするのでしょうか? そこに安倍元首相のアプローチに倣った、この内閣のあやうさを見て取る事ができます。

TaoChat@1153編集後記

今回も編集後記が遅れてしまった。なぜ遅れるのか振り返ると、メルマガ原稿が仕上がるのが昼近くになるため、午後の予定に編集後記を組み込む時間がなくなってしまうためのようである。午後の予定と言っても、細かに組まれているわけではないが、頭がそちらに向いてしまうようである。宮台真司氏が襲われたのが先月29日で、そのことに触れようとしながらすっかり忘れていた。氏が無事に生還されてひとまずは一安心だが、犯人の意図は全くわからず、今も逃走中であり、再度狙う可能性もあるので警戒する必要はある。現在宮台氏はネットで感想を述べているが、刺された後、救急車が現場に到着したのが50分後というお粗末さが現実だった。それだけの時間なら、切られた場所が悪ければ、出血多量で亡くなっている。命に別状はないという報道は、私もいつも不思議に思っている。何箇所も斬られていて何時間も手術を受けていて、命に別状はないというのはおかしい。医者がいうには、助かったのは千に一の奇跡だったそうである。言論が封殺の恐怖で萎縮するのが耐えられないということで、宮台氏は何もなかったように振舞っている。その姿勢は言論界に対し強力なメッセージとなっている。昨日地元茅ケ崎市で殺傷事件が起こり、被害者の方は亡くなられた。インターフォンで呼び出され、いきなり斬りつけられたという無謀さで、しかも犯人はこれまた逃走中である。突如襲う身の回りの危険から身を守る術はないのだろうか?

今回の言葉は、蕪村の句をいただいた。「方丈記」の冒頭を意識した句のようである。川の流れは常に変化し、決して同じ川を保っていない。つい最近、ZOOM会で取り上げたパラドックスの話のなかで、テセウスの船というものがある。船の部品が全部交換されたとき、それはもとの船と同じといえるのかという問題である。方丈記の川の水も絶えず流れていて、もとの川にあらずということになり、「テセウスの船」の別バージョンと考える事ができる。蕪村は、その水が凍ってしまえばもとの水のままとなり、川の一部はもとの川として残ると反論しているようだ。この世のすべてが変化し、もとのままの形は残らないというのが無常感である。しかし、そこに変わらない一部のものがある。それこそが自分のアイデンティティとなる。あなたのアイデンティティは何か?を問う、今回の言葉でした。

TaoChat@1152編集後記

@1152のメルマガを発信してから、だいぶ遅れての編集後記である。山口県と福岡県に旅行に出ていたためである。昨日は門司で雪に降られた。全国的に寒かったようだ。

幕末の尊王攘夷運動の中心的な役割を果たしたのは長州藩だが、明治維新で政権を握ったのも長州藩である。安倍元首相の出身地も山口県長門である。吉田松陰松下村塾も志士の多くを生み出した。そんな歴史的な地を訪れるのが今回の旅行の目的だった。辺境の地から日本を変える力が芽生えるのは歴史的必然と思われる。政治経済の中心にいても、変革の底力を持つ者は生まれない。ナポレオンしかり、フビライしかりである。

実際に松下村塾を訪れると、狭い空間に身分を問わず多くの塾生が、先生の講話を聞きている場面が浮かんでくるようだ。耳で聞いて頭で考えて、思想を理解する。教育の原点は人から人への伝承だということが理解できる。

この一週間は私的には忙しかった。公けの出来事は、防衛費増額に伴う増税が話題になったが、防衛も兵器に金をかける前に、人の教育が大事になる。ウクライナの防衛戦争を見ても明らかだが、兵器が足りなくても国を守る意識は、国民全体が持っている。一方、日本では、自衛隊日米安保で米軍が救ってくれると国民の意識が低い。最新兵器を幾ら持っていても、実際に使えなければ宝の持ち腐れとなる。国民の国防意識を教育することが先決となる。国防意識は武器だけでなく、機密情報の取り扱いを厳格にすることを含む。最近の裁判所は最高裁判所を含み、裁判文書の扱いがずさんで、大事な文書も廃棄する事件が多発している。重要な文書を残すということは、国民の教育の原点となる。政治はとかく機密文書を隠し、そんな記録はございませんという。沖縄への核持込みの密約はアメリカの公文書の開示で明らかになった。国民に情報を隠し愚民政策を推し進めるというのが日本政府の手口だが、防衛も行政も司法も今なおこの手を使っている。日本がミサイル攻撃を受けたとき、どのようにして身の安全を守るかという教育すら行なわれていない。

今回の言葉は荀子から選びました。遇と不遇は時也。なかなかいい言葉だと思います。

腐らず時を待て。織田信長徳川家康もみなこの言葉を信じていたと思います。人間万事塞翁が馬につながる言葉でないでしょうか? 遇と不遇がめくるめく変転するからこと、一喜一憂することなくじっと鍛錬し、期が熟すまでこらえる。別に英雄のみに当てはまる言葉ではありません。日常の一面一面で経験する言葉だと思います。

TaoChat@1151編集後記

12月に入って肌寒くなった。今日もセラミックヒータを使って部屋を暖めている。政府からは節電要請が出ているが、いま居る部屋だけは暖房に頼っている。明日は5回目のコロナワクチン接種を受ける。いまだに感染死者数は相当数いるので、重症化を抑えるためには一応受けておくことにした。国産ワクチンの方はまだ出てこないのが不思議でならない。日本の医薬技術は世界トップレベルから相当遅れていると思わざるを得ない。いまだにファイザーやモデルナ頼みである。

この一週間の出来事は、何と言っても、サッカーW杯でのスペイン戦での勝利である。コスタリカ戦で惨敗し、最早予選敗退かと思ったが強豪にはファイトを燃やすようで、伏兵の活躍でスペイン撃破し、予選を1位通過した。クロアチアも強豪なので、是非闘志を燃やして欲しい。個人的には、ジャック・ロンドンの「白い牙」(新潮文庫)を読んだ。この本は、柴田先生と、村上春樹さんが、「本当の翻訳の話をしよう」で推薦していた本で、野生のオオカミが人間の社会に溶け込む過程を、オオカミの視点で書かれた物語で、面白かった。柴田先生と村上さんが翻訳のうまさを語っていましたが、話に引き込まれてしまう点で、その素晴らしさが現われていると思います。翻訳者は白石佑光氏で、昭和33年に初版が出ているので60年以上前の訳ですが、決して古さを感じさせません。それどころか、自分がオオカミになったような気分にさせてくれ、リズミカルな訳なので、どんどん引き込まれていきます。野生さを失わずに、人間をどう捉えて、妥協していくのかが描かれ、原作者のオリジナリティに驚くばかりです。

今回の言葉は、荘子より選びました。知北遊篇は秋水篇とならび、素敵な内容を持っていると、森三樹三郎先生もおっしゃっています。人の生は、白馬が通るのをすき間からのぞくようなものという言葉です。ほんとに束の間のことだけれど、生きていることを直視するたとえとして的確な表現だと思います。間隙から白馬の通過をながめても、一瞬のことだから、白い何かが一瞬通り過ぎたことしかわからない。人の生は、何になったとか、何を得たかは問題ではない。どのように生きたのかが問題となる。白馬とは、純粋な魂のたとえのように感じた。純粋な魂が一瞬を駆け抜けることが生きるということのように感じた。サッカーの試合を見ていて、荘子の言葉と符合すると思いました。

堂安選手が同点ゴールを2回も決めたのは、自分ができることをひたすら実行していくという魂が、ボールに乗っていった結果、ボールがゴールに吸い込まれたように感じました。これもサッカー選手の生の証しでしょう。いいかえれば、サッカー選手の生は、白球が通るのをすき間からのぞくようなものです。そこには、堂安選手にボールをつないだすべての選手の魂がそこに乗っているはずです。そう考えると、荘子の言葉は奥行きがでてきます。ボールの扱う技術のうまいへたはあるでしょうが、そこにどれだけ魂を寄せるかで、ボールの軌道は変化していくはずです。サッカーの試合では、そういう場面が多く見られるのが楽しみのひとつであるように思いました。

TaoChat@1150編集後記

今朝方雨が降っていたが、今は雨も止んで日が照っている。11月末にしては暖かく、午後は散歩に出かけよう。公園の木々は彩り鮮やかになり、目にも優しい。芝生の上に落葉がたまり、その上を歩くのが楽しい。靴が落葉のなかにもぐり、ふわふわのじゅうたんのうえを歩くようだ。落葉がモザイク模様を描いている。この一週間の出来事は、なんと言っても、カタールW杯でのドイツ撃破だろう。とはいっても、前半後半通して、観戦しておらず、前半で寝てしまった。前半ドイツに押されまくって、権田選手がつまづいてドイツ選手におおいかぶさったのをファウルにとられてPKで1点取られたので、その先を見ていられなかった。その後逆転劇を見逃し、家内に勝利したことを知らされ、寝床から這い出し、勝利インタビューを見ていた。というわけで歴史的瞬間は見逃した。サッカーの試合を見ながらいつも感じるのは、孫子の言葉である。兵の形は水に象る。めまぐるしく変わる状況の変化は、まさに水の流れである。流れに飲まれるか、流れに乗るかで勝敗が分かれる。浅野選手の逆転ゴールは、日本の強さを物語る。選手のモチベーションとして、チャンスがあったらいつでもゴールを狙うというのは当然だと思う。しかし、それを確実に実行するというのは、強いメンタルを要する。その強いメンタルを信じて、ロングボールを確実に決めた板倉選手の技も勝利への流れを作った。その感動をメルマガでは孫子の言葉で綴りました。メルマガで、逆転ゴールを遠藤選手と誤って書いてしまったことをこの場でお詫びします。

TaoChat@1149編集後記

今日も天気のよい一日のようである。洗濯物の干して、我が家に泊まっている犬の散歩をして、メルマガ原稿を書いた。まだ2歳のオスの犬なので、元気がよく走って移動する。それに歩調をあわせる高齢者は走らされるので、普段使っていない筋肉を酷使することになり、足の筋肉が痛くなっている。犬の方は3泊4日の滞在で今日帰った。ということで、この一週間は犬を中心に周った。犬のいい所は感情が通うところで、食事をしていると近くに来て、おこぼれにありつこうとする。えさの時間までだめだというと、素直にあきらめてさびしそうな顔をする。実に表現力が豊かであり、家全体が明るくなる。従って、いっとき明るかった家が、犬が去ることで寂しくなったような気がする。普段の家にもどったのだが、何かがぽっかり欠けたような気がする。世界の一週間は、ポーランドにロシア製ミサイルが撃ち込まれ、市民2人が亡くなった。相変わらず、ロシアは相変わらずウクライナにミサイルを撃ち込んで、民間施設を破壊している。この状況に世界はなす術がなく、ポーランドへのミサイルはウクライナからの迎撃ミサイルだという始末である。ロシアの侵略から守る、ウクライナの防衛が起こした悲劇という図柄を作り出している。いつの間にかロシアの侵略が日常化して、防衛で躍起になっているゼレンスキー大統領を非難する人間まで現われている。北朝鮮のミサイル発射は今も続いているが、これも日常化しており、そのうち漁船への被弾も時間の問題となっている。あたってしまったとき、岸田内閣がどのような対応をとるのか興味が湧く。あたったほうが悪いのか、あてたほうが悪いのかを議論する前に、なぜ日常化するに至ったのかを議論したほうがよい。

今回の言葉はゲーテよりいただいた。寛大になるには年をとればよい。プーチン習近平を見る限り、ゲーテの言葉はあたっていない。彼らはあら70だが、ちっとも寛大ではない。自国の領土拡大で頭が一杯である。隣国の国民の気持ちどころか、自国民の気持ちも無視して、野望のなすままに動いている。愛すべきは自国のことだけ、ロシア・ファースト、チャイナ・ファーストである。これが国連安保の常任理事国になっているのだから、目もあてられない結果を招いている。どちらの国も、過去の歴史のトラウマにとりつかれている。ロシアはモンゴル族の征服、中国はアヘン戦争の敗北。いずれも、軍事力がないために惨敗したトラウマにとりつかれ、とにかく強固な軍事力で領土拡大する野心をむき出しにする。それを正当化するために、自分の権力は長期に維持する必要がある。それを現実化しているのが現状である。ゲーテ先生のロジックは、過去の過ちは他人の過ちを見てよみがえり、他人を自分と同一化するプロセスで、寛大になるとしている。プーチンは、チェチェンジョージアやシリアで過ちを繰り返すが、過ちと認識しておらず、死ぬまで過ちを続けるという事態に陥っている。これでは寛大になりようがない。寛大になるプロセスは、どうしても、他人のふりみて我がふり直すという心がけが基礎になる。この基礎なしに寛大にはなりえない。ナチスを目のかたきにするプーチンだが、ナチスのふり見て、自分もナチスのふりにならっているとしか思えない、ウクライナ侵略である。アーリア人の誇りを唄ったヒトラーと、ロシア人の誇りを唄ったプーチンは不思議に重なっている。