TaoChat@1047編集後記

今朝は雨が降る寒い朝となりました。

12月に入って、空気の冷たさが増したと感じています。

先週は、大津と奈良に出かけていました。

奈良ではJR奈良駅近くのホテルに宿泊して、電車やバスを使って、神社、仏閣をお参りしてきました。

びっくりしたのは、奈良の人の少なさです。県庁所在地であるにも関わらず、ホームにも人は少なく、歩いている人もまばらです。コロナ感染は都市部が深刻ということを体感できました。都市部から地方へ無症状者による拡散ということになります。もちろん奈良は非都市部で、駅が混雑するのは、登下校時と出勤退勤時だけです。

免疫調査のニュースを聞きましたが、重症者ほど強力な免疫ができ、軽症者には弱い免疫しかできない。リスクを犯さないと安心は得られない。

自然の掟はコロナにも通用するようです。

今回の言葉は、文庫本から選んだ、芥川龍之介の言葉です。

中学か高校のときに買った文庫本で、「西方の人侏儒の言葉」という題がついていますが、今の文庫本と違って、芭蕉雑記、本所両国などの小品・評論が余分についていて、自分にとっては貴重な文庫本になっています。

芥川の人生に関する言葉がいろいろ載っています。

「河童」では、生まれるときに子宮に耳をつけて、生まれてくる意志があるかどうか、河童の胎児に聞きます。胎児が言葉を話せるというのが不思議ですが、芥川の人生論として、道しるべなしに歩き始めるのが人生だという。だから、歩き始めると傷だらけになる。苦労だらけの人生を始めるかどうか、誕生時に自分で決めるのが河童です。

今回選んだ言葉は、人生をマッチに例えています。アンデルセン童話の「マッチ売り少女」では、マッチをすると幸せな夢が眼前に現われました。マッチは命に希望の火を与えてくれます。マッチがなくなったとき、少女は息絶えます。

芥川のマッチはなんだったのでしょうか? 自分は一日一日の生の灯火と考えた。

一日の生は毎日代わり映えのしない、無味に見える。それを重大とするのはおおげさかもしれない。しかし、その積み重ねが長い人生を生んでいく。

その積み重ねの重大さを忘れると危険である。

芥川は別の箇所で、人生を幸福にするためには日常の瑣事を愛し、日常の瑣事に苦しまねばならぬという。一日の生は瑣事の享楽と苦悩ということになる。