TaoChat@1185編集後記

今日も朝から暑い。冷えぴたをおでこに貼って、保冷剤を首に巻きつけて、暑さを凌いでいる。さすがに日中の散歩は自殺行為である。日が暮れてからにしようと思う。一週間のニュースは、大谷君の3打席連続本塁打で、今朝の時点で39号までいった。増産のスピードはおさまりそうもない。8月前に40号を超えた選手は全米球史で二人しかいない。大谷君は初打席本塁打が多いように思う。プライベートでは、リビングのエアコンがトラブルにあい使えず、扇風機で対処している。エアコンは富士通ゼネラルで、フィルタ掃除後ダストボックスへの取り付けが十分でなく、停止後のフィルタ掃除のときに、フィルタを歪めたらしく、フィルタが絡まってダストボックスが外せなくなった。メーカーのサポートセンタに連絡したら、サービスは火曜になるとのことだった。それまでの間、ダストボックスを外せる人間を見つけることが緊急課題となった。いずれにせよ、エアコンなしで熱中症にならないようにする試練を与えられた。

今回の言葉は蝉にかかわる禅語を選んだ。禅堂で座禅を組んでいれば、どうしても蝉の声が耳に入る。その声から、その鳴く様子を思い浮かべてしまう。個人的に、蝉には昔から愛着がある。蝉の抜け殻を見て、蝉の地上での旅立ちを知り、路上の蝉の屍骸を見て、短い人生の終着を知る。そのすべてが自分に何かを問いかける。蝉のように、全力の生き方が自分にはできているだろうか?と。禅堂で修行する禅僧も同じことを思ったに違いない。「鳴き尽くす」と「頭を廻らさず」には、その思いが込められている。頭を廻らすことで、周囲の状況にどうしても目が行ってしまう。自分の感覚器官を閉ざして、一点に精神を集中することで、道が開けてくる。蝉が「鳴き尽くす」とは、振動器官を力の限り振るわせることである。余力をすべて振動に注ぎ込む。力が果てたときに命を失う。生きながら死ぬ。即身成仏を体現しているのが、蝉の生き方だと思っている。蝉の屍骸は即身仏になっている。