TaoChat@1135編集後記

今日は台風が近づきつつあるので、空は曇り、時おり強い雨が急に降り出している。雷の音も聞こえている。気流の変動が摩擦帯電を引き起こし、地上に放電している。タオを学んでいると、自然現象を気の動きで考えてしまう。暑さのほうはないので、過ごしやすい朝を過ごしている。

この一週間の出来事は、岸田首相の内閣改造と、旧統一教会自民党の関係、そして嬉しいニュースは、大谷選手がベーブルースの二刀流の記録、すなわち2桁勝利と2桁本塁打の記録を104年ぶりに達成したことだった。2桁勝利する投手は多いが、それが2桁本塁打を打つのが大変だった。投手が本塁打を打つのは珍しくないが、2桁打つには打席に多く立たなくてはいけない。投手を指名打者にあてるほどの余裕はどのチームにもない。とにかく、大谷選手の記録は、全米球史に残るのは間違いない。

岸田首相の内閣改造は、恒例の派閥主導のもので、目新しさはない。今回は、旧統一教会との関係を明らかにさせ、その関係を絶つことができる人材を選んだということだった。その結末は、文春砲の調査に任せたい。どちらにしても、自分は知らなかったというのが、政治家の最後の言い訳である。安倍さんの国葬問題は、岸田政権のなし崩しで押し切られるのだろう。安倍さんへの弔意より、国葬に招かれる海外要人との会合のチャンスを得たいというのが岸田さんの本心と言える。まあこれはなるようにしかならない。

今回の言葉は、セミの2句を取り上げた。この季節とセミは切り離させない関係にある。荘子では、セミはスケールの小さい生き物として描かれ、スケールの大きな大鵬の生き方など、考えが及ばない矮小な生き物として描かれる。しかし、日本の二大俳人は、セミの生き方に学ぶべきものを感じている。芭蕉は、岩にしみいるセミの声で有名だが、こちらの句も素直な感動を表わしている。散歩していると、セミの声が耳に残り、うなりは脳の中に届き、耳鳴りとして残響する。この過程が自分の夏のシンボルになる。夏は、国内国外どこにいても、セミの声を捜し求める。セミの生き様に共鳴して作品を作るのは、日本人しかいないと考えられる。南仏でもセミは、幸福のシンボルになっている。しかし、セミの生き様を自分に重ね合わせるのは、日本人独特の感性といえる。それが今も残っているかは自信がないが、少なくとも、江戸時代には残っていた。その感性は作品を味わうことで、今に呼び戻す事ができる。人間が生きることとセミが生きることには、同じ生きるものとして何らかの関係がある。