2回ほど、編集後記をさぼってしまった。
その間に、色んな事件や米朝首脳会談があった。
その都度、何か書かなければと思ったが、後回しになった。
身近では、茅ケ崎で90歳の女性が死亡事故を起こした。
いつも通る道で、事故が起こりそうもない所でした。
自分が死んでいても不思議はない場所です。
新幹線での自殺希望者による殺傷事件。
どこでなんどき、死に目に遇うかわからない時世であると思わされます。
今回選んだ老子の言葉は、無の用の話です。
完璧なものにはどこか抜けたところがある。
満たされたものは中が空っぽである。
無を満たそうとすると、満たされなくなる。
無は無のまま、使ったほうが役に立つ。
90歳の事故で言えば、加害者は赤信号だったがでひとは渡っていないと思い、通過してしまった。90歳の人間は体力も衰え記憶も薄れる完璧な人間ではないが、自動車という用で、人生を無にしてしまう事故を起こした。自動車運転という用を捨てれば、事故は起きなかった。
用で無にするのがよいか、無で用を為した方がよいか、結論は言わずもがな。
人間の無は死とも言えます。
死で心が一杯になると、恐怖に怯え、自暴自棄になることもある。
死で心が満たされると、人生が満たされなくなる。
老子は人間の無をどのように考えたか?
人生を有無相生と考えた。
生きている最中に、生と死が交互に現れると考えた。
寝ているときは死と同じ。朝起きずにそのままずっと寝た状態が死。
人間は毎日、死んでまた生きる。
自殺願望者が、死からの再生を毎日繰り返していることに気がついたら、人生が変わって見えてくると思われます。
無というのは、心を一度リセットする契機です。
自分はあのとき一度死んだと考えると、そのあと執着心を捨て、生まれ変わる事ができる。それは簡単なことではないかもしれないが、死の用を悟った人間だけがその用を実感できる。
老子の言葉は重いが、心に焼きつく。
そんな言葉こそが普遍的な真理の言葉である。