TaoChat@918編集後記

2回ほど、編集後記をさぼってしまった。

その間に、色んな事件や米朝首脳会談があった。

その都度、何か書かなければと思ったが、後回しになった。

身近では、茅ケ崎で90歳の女性が死亡事故を起こした。

いつも通る道で、事故が起こりそうもない所でした。

自分が死んでいても不思議はない場所です。

新幹線での自殺希望者による殺傷事件。

どこでなんどき、死に目に遇うかわからない時世であると思わされます。

今回選んだ老子の言葉は、無の用の話です。

完璧なものにはどこか抜けたところがある。

満たされたものは中が空っぽである。

無を満たそうとすると、満たされなくなる。

無は無のまま、使ったほうが役に立つ。

90歳の事故で言えば、加害者は赤信号だったがでひとは渡っていないと思い、通過してしまった。90歳の人間は体力も衰え記憶も薄れる完璧な人間ではないが、自動車という用で、人生を無にしてしまう事故を起こした。自動車運転という用を捨てれば、事故は起きなかった。

用で無にするのがよいか、無で用を為した方がよいか、結論は言わずもがな。

人間の無は死とも言えます。

死で心が一杯になると、恐怖に怯え、自暴自棄になることもある。

死で心が満たされると、人生が満たされなくなる。

老子は人間の無をどのように考えたか?

人生を有無相生と考えた。

生きている最中に、生と死が交互に現れると考えた。

寝ているときは死と同じ。朝起きずにそのままずっと寝た状態が死。

人間は毎日、死んでまた生きる。

自殺願望者が、死からの再生を毎日繰り返していることに気がついたら、人生が変わって見えてくると思われます。

無というのは、心を一度リセットする契機です。

自分はあのとき一度死んだと考えると、そのあと執着心を捨て、生まれ変わる事ができる。それは簡単なことではないかもしれないが、死の用を悟った人間だけがその用を実感できる。

老子の言葉は重いが、心に焼きつく。

そんな言葉こそが普遍的な真理の言葉である。